Column修復家の眼差し

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Vol.5 どうしたら、修復士になれますか?

前回まで忌まわしい過去の例をとりあげて修復のやや否定的な側面を語ってきたが、理念が確立したかにみえる今日の修復は肯定的に楽観的に語れるか、と言うとそうでもない。最先端のテクノロジーを駆使して匠の技で鮮やかに名画が甦る、などというのは戯言に過ぎない。そんな立派なものではない。
奇妙な例えかもしれないが、傷ついた心が完全には修復できないように、そもそも完全な修復は成立しない。なぜ心が傷ついたのかがわかって回復する手立てがとれれば少しは立ち直ることができるし、半ば傷を忘れて生きることもできる。物の修復も似たようなもので、対象を見つめ、利点が10でマイナスが8だからという苦渋の選択を重ね、少しは直ったかのように見せているだけ。傷ついた心を抱いたままで生きていくことは苦しい。それは、避けたい。だから、傷つく前に戻すことができなくても、何か今できることを積み重ねて苦しみをやわらげる。科学的で真摯な、まやかし。私たちがやっている仕事は、正確ではないにしても、むしろそんな感じだ。
複雑で精妙でわかりにくい仕事をわかりやすく多くの人に伝えるのも大切なことで、テレビでイタリアの修復師の仕事などが紹介されるのは歓迎するが、どうしても鮮やかに甦る、というスタイルで単純化されて感動的に報道されてしまうことが多い。それを見て修復の仕事に憧れを持つ人は結構いて、私の元にも問い合わせが時々くる。-どうしたら、修復師になれますか?

仕事をするにあたっての資格というのはないが、近年、欧米では美術館などで活躍するほとんどの修復者は教育機関の保存修復課程卒業者が占めるようになっている。入学は希望者が多く、競争も厳しい。合格者は数人で、内3割は卒業できないことが多い。私がかつて学んだベルギーの学校は審査制が採られていて、進級こそ学内の採点があるものの、5年目の卒業は論文審査と審査官の前でのプレゼンテーションだけで決まる仕組みだった。審査員は十人ほどで、国内外の文化財研究所や大学から美術史、化学など様々な分野から集まる。学生の国籍もベルギー、フランス、ドイツ、ルクセンブルグなどまちまちだった。結果より修復前の研究のプロセスが重視され、個別の対象についての深い理解と説明能力が求められ、なぜ修復するのか、根本的な哲学が問われる。お手本はないわけだから「上手によく出来ました」という評価はない。
審査を通して情報や意見が交換され、卒業は社会的に認知され、公的機関などでの研修にも有利にはたらく。それでも、卒業後の生き残りは甘くはない。傷ついた心を修復するような困難な仕事で、夢があふれていそうで、実際の現場は苛烈な世界である。
将来どこかの現場で再会することを期待して私なりの説明はしているが、修復師になるマニュアルはあるようで、ない。