Column修復家の眼差し

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Vol.1 アンドリュー・ワイエスを見る

すべての名画は修復されている。

名画とは何か、と言われてきちんと答えることは難しいとしても、逆に修復されて残されているものの中にしか名画は存在しない、と言うことはできるだろう。ルーヴル美術館のようなところに展示されている作品は全てに後代の手が入っている。もしかしたら収蔵庫に未修復のまま埋もれているものがあるかもしれないが、見つかればそれは極めて貴重な発見、ということになる。
何も古い作品に限らない。私たちに馴染み深い印象派の作品で未修復のものは稀だし、現代美術でさえ何の保存処置もされずに展示や輸送が行われることは少ない。
先週、ある展覧会のためにルノワールの作品30数点を点検したが、やはり全点に補彩が施されていた。経済的な価値の高い名品で手付かずのものはそんなに多くない。だから、美術品を扱うプロは「これは本物か」ということだけでなく「何パーセント本物なのか」つまり、どのぐらい加筆が入っているか見極めようとする。修復されている偽物だってあるからけっこうやっかいではある。
今日の修復家が最も時間を割いて取り組んでいるのもこうした古い修復をどうするか、ということだ。切り裂かれたキャンバスを修復して一見わからないようにすることはたいして難しいことではない。たんなる技術的な問題だ。でも、黄色く変色したワニスとか、かつての補彩とか加筆を取り除くかどうか、といった問題はそう簡単ではない。付けたものは取りようもあるが、取ってしまえば永久になくなるわけだから。
作品にどんな手が加わっているのかを見るために紫外線がよく用いられるが、肉眼で、美術館の普通の照明下で見つけることも不可能ではない。じっくりと作品を見つめて加筆を発見し、作家の手を離れた後で作品がどのような運命をたどったのか想像しながら見るのも楽しい。
アンドリュー・ワイエスの「酒密輸人」という作品をよく見ると不自然な部分が見えてくる。

人物下の舟の色が他とちょっと違うのがわかるだろう。紫外線で見るともっとよくわかる。男の周りの濃く青く見えるところが修復された部分である。ただし、これは描いた後30年ぐらい経て画家自身が修復したもので、厳密には「修復」ではなく「描き変え」である。1945年に描かれた当初の「西へ」では男が舟の前に立っているが、傷んだ部分の修復を依頼された画家は、男を舟の向こう側に背を向けて座らせ、その視線の方向にスループ船を描き加えた。
彼方の世界に誘うトリックをしかけなおして、「酒密輸人」という全く別の物語に描き変えたのである。