1966年11月4日、フィレンツェーアルノ川大洪水の被害と復興の道のり
6.修復家たちの奮闘①:ウンベルト・バルディーニとウーゴ・プロカッチ ―
(後編―リモナイアでの修復作業)
リモナイアでは、ウーゴ・プロカッチと修復家のエド・マンスィーニが白衣に身を包んで《十字架降下》の到着を待っていた。《十字架降下》の輸送が決定されて以降、CRIAからの金銭的な援助を受けたプロカッチとバルディーニは、この施設を「檸檬」用から「重症の芸術作品患者」用の仕様へ変えるべく、リフォームを試みていた1。準備にあたり、数週間にわたって空調を継続的に稼働させた結果、柑橘類は乾燥しきって、ほぼ全滅したという。だが、いくら除湿を試みたところで、本来温室として使用されていたこの建物はいかんせん温度も湿度も高すぎた。実のところ、安定しない温湿度のために、リモナイアに運ばれた作品は少なからずダメージを被ってしまった。アクリル系樹脂パラロイドB-72の硬化が過剰に速められた結果、絵画の亀裂は広がり、大量のかびを発生させることになってしまうのだ。しかし、この結末が明らかになるのはまだもう少し先の話である。

図1 チマブーエ《十字架降下》の温湿度記録
国立輝石修復研究所アーカイヴセンター
さて、トラックから降ろされた《十字架降下》はリモナイア内部に静かに運び込まれ、まず、かびの発生を防ぐため、抗真菌剤のナイスタチンを全体に塗布された。続いて、作品サイズと重量、そして水分含有量の計測が行われた。洪水前の通常時、平均で18%程度であった水分含有率は、今や147%まで上昇していた。重量は倍の値を指しており、全長は最大7.62cmも伸びている。プロカッチらは《十字架降下》のために特別な「ICU(集中治療室)」を用意していた。修復主任のオフィスの目の前に設えたガラス張りの部屋である。リモナイアに出入りする者は誰でも、ガラス越しに《十字架降下》と対面することができた。
作品が搬入されてすぐ、開始すべき処置をめぐって、修復家と美術史家たちの議論がはじまった。しかしバルディーニは確固とした見解をもっていた。ともあれ、作品の水分含有量が減少し、絶え間ない変形が止まり、落ち着きをみせるまで── つまりこの「患者のバイタル」が安定するまでは── 大掛かりな処置は行うことができない、と、彼は宣言する。彩色層の剥離止めという大事業と、特殊な技法を用いた補彩が開始されたのは1968年のことであり、それまでの間、《十字架降下》は透明な病室のなかで細かな収縮を繰り返しながら、じっと待機を続けていた。
当時の《十字架降下》に直接触れていた「天使」がいる。イングランドからやってきていた学生、ジョン・スコフィールドである。彼は、印象派の画家ウオルター・エルマー・スコフィールドの孫であり、祖国では名の知られた芸術一家に生まれ育った人物であった。ひょんなことからリモナイアへの出入りを許されたスコフィールドは、たどたどしいイタリア語で苦労してコミュニケーションを取りながら(バルディーニをはじめ、当時のリモナイアに集合していた美術史家や修復家の多くは、英語が得意ではなかった)、言われるがままに《十字架降下》の背面にたまった泥をかきだし、一面に生えた黒、赤、ピンクのかびを除去し、防かび材を注射器や筆を用いて注入する作業に従事した。持ち前の粘り強さを発揮して、黙々と作品に触れるうち、スコフィールドは幾つかの事柄に気づいた。一番大きい問題は、かびの除去作業があまり効率的に進行していない現状であった。《十字架降下》の支持体に取り付けられたウオール・マウント用の鋼鉄は、支持体の背面の大半を覆い隠してしまっており、注射針や筆先が届かない箇所が多くある。また、黒かびに関していえば、繁殖力があまりに強く、この方法ではいくら塗布しても12時間後には元通りになってしまう。さらに、作品が現在置かれている環境自体にも、少なからず問題があった。《十字架降下》がおさめられている「ICU」には、各国の美術関係者や報道陣がひっきりなしに出入りした。ばたばたと扉が開け閉めされるたびに、バルディーニがいうところの「作品のバイタル」が大きく乱れることにスコフィールドは気づいた。リモナイアで働き始めて1週間後、彼は、亀裂が前に比べて大きくなり、伸びていることを発見し、愕然とする。
しかしながら、当時のバルディーニとプロカッチは、12月末までにフィレンツェ市内で重度に被災した作品すべてをリモナイアに搬送するための段取りを整えるべく、非常に忙しく各所を駆け回っており、スコフィールドが自分の発見を直接伝える機会はなかなか訪れなかった2。
ある日の夕刻、リモナイアに仮収蔵された作品の「回診」にやってきたバルディーニをようやくつかまえたスコフィールドは、現在の環境が作品に大きなストレスを与えていること、その結果実際に作品の状態が悪化していること、防かび材の塗布方法が有効とは思えないことなどを必死で伝えた。スコフィールドがここで新たに提案したのは、薬局で売っているバルブ型の香水瓶を用いて、気化した薬剤を手の届かない箇所に吹き付けるという方法だった。
バルディーニは饒舌な男性ではなく、静かに穏やかに人の眼をみて話を聞くタイプの人であったという。スコフィールドの必死の主張に耳を傾けると、物静かな美術史家は、君の考えた方法で防かび材を塗布してみてほしいと言った。さらに、《十字架降下》用作業室の出入り口扉にはポリエチレンのシートを吊り下げ、人の出入りの際に急激に上昇する温度や湿度を最低限に抑える工夫をほどこすよう、リモナイアの職員に指示を出した。
バルディーニは自分の意見に耳を傾けてくれた、と、スコフィールドは、当時共に作業をしていた同世代の美術史家ブルーノ・サンティに報告している。
「バルディーニやプロカッチは、十字架を最終的にどうするつもりなんだろう?」スコフィールドはふとサンティに尋ねてみた。キリストの顔は無惨にも大部分が失われてしまっている。顔だけではもちろんなく、手足も、背景も、すべてが壊滅的で、とても元通りには戻せないように思われた。というよりも、ここまで損なわれてしまったものを洪水以前の状態に戻す選択が正しいのか否か、確信がもてなかった。自分が帰国した後、気の毒なキリストはどんな運命を辿ることになるのだろう、と、スコフィールドは繰り返し想像しただろう。
「おそらく、欠損は白色の充填剤で埋めるんじゃないかな。そして作品をプレキシガラスで表裏からはさみこむようにして固定して、その上に、洪水以前の欠損部分をステンシルで再現して刷るんじゃないだろうか」とサンティは答えた。
「僕が思うには」スコフィールドは言った。「そんなの、何もしないでおくよりもよっぽど酷い処置なんじゃないかな」
バルディーニが《十字架降下》にどのような補彩を施そうとしているのか、明確に知っている人間は、まだ当時、誰もいなかっただろう。おそらくプロカッチでさえ聞き出すことができずにいたし、もしかしたらバルディーニ自身ですら、答えには辿りついていなかったかもしれない。実際のところ、《十字架降下》に補彩を行った修復家オルネッラ・カザッツァがリモナイアで作業を開始するのは、1969年からである。ただし、バルディーニの念頭には、ローマの国立中央修復研究所を牽引していた近代保存修復学の祖チェーザレ・ブランディが広範囲にわたる欠損に施していた線描技法(Torateggio)や、中間色(Neutro)が確かにあったはずである。

図2 チェーザレ・ブランディ監督下で行われた線描技法(Torateggio)を用いた補彩例
個人資料
ローマの国立修復研究所とフィレンツェの国立輝石修復研究所は──というよりも、ブランディとプロカッチは──修復の在り方や補彩の理想について異なった見解をもっていたが、表だって激しくぶつかることはなく、無言の不可侵条約のようなものを結んでいたようにみえる。
プロカッチは、バルディーニがブランディの線描技法をそのまま採用はしないだろうと予想していたと思われる。未曾有の災害にあって、恐ろしいダメージを受けたフィレンツェの文化財群を、既存の方法論と技法で修復するなど不可能である。そこには新たな発想が、新たな修復のメソッドと理念が求められていた。ただし、プロカッチは、バルディーニに結論を出すのに十分なだけの時間を与えるつもりであったろう。いずれにせよ、《十字架降下》に関していえば、水分含有量が下がり安定するまでに長い時間が必要とされる。また、他にも対応を急かされている頭の痛い問題が山積みであった。
プロカッチは、資金繰りや、ひいては保存修復の方針や主導権をめぐる政治的なパワーバランスについても気を配らなくてはならなかった。資金を援助し、海外から優秀な修復家のチームを送りこんでくれたCRIAとの関係性をいかに保ち、発展させ、時に必要な距離をはかるべきか、その算段もプロカッチの役割であった。CRIAは資金を有効に活用すべく、「要修復作品」のリストを作成していたが、当然フィレンツェ中のすべての被災文化財がリストに載っているわけではなく、リストからこぼれたばかりに修復の目処がたたなくなった貴重な作品が目立ちはじめている事態を、彼は憂慮していた。また、1月、2月とさらに冷え込みが厳しくなるにつれ、リモナイアの労働環境は悪化し、皆が酷い風邪をひきこみ、それが伝染病のごとく流行した。厳しい懐事情から、給与体制が悪化していっていることにも不満の声が上がっている。給与は大概、次の月の20日になるまで支払われなかったし、修復家としてトレーニングを積んだ人材であっても、作業の時給は1100リラ(1ドル75セント)であった。こういった状況をいとわず情熱をもって献身的に作業に従事したのは、当時まだ若かった20代の修復家や美術史家たちであった。そして彼らが、この後のフィレンツェの修復界を支える屋台骨となっていくことになる。
ともあれ、こうした現実的な問題については、どちらかといえばプロカッチが処理し、バルディーニはあるべき修復の方向性に静かに思いを巡らせていたようである。両者はともに優秀な美術史家であり、信頼と友情で結ばれた同士であり、復興の道をともに歩む戦友であったが、実のところタイプのまったく異なる二人であった。二人の間には、言葉を交わさずとも諒解された役割分担があった。

図3 ウンベルト・バルディーニとチェーザレ・ブランディの作品救出作業スケッチ
National Geographic, Vol.132, No. 1, 1967 July, pp. 30-31
1968年、1月。《十字架降下》の水分含有量はようやく25%にまで下がった。リモナイアに運び込まれてからほぼ1年をかけて、半分の値になったのである。
「そろそろだ」とバルディーニは考えた。「そろそろ仕事に取りかかっていい時期だろう」
ようやく、《十字架降下》への本格的な介入がはじまろうとしていた。
1 CRIAはパブロ・ピカソの絵画作品などをニューヨークで開催されたオークションに出品し、獲得した11万ドルをすべてフィレンツェに送金している。
2 1966年12月18日までに、彼らは計画通り、深刻な損傷が認められた作品すべてをリモナイアに運び込んだ。