Essay修復家の小論

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1966年11月4日、フィレンツェーアルノ川大洪水の被害と復興の道のり
 5.修復家たちの奮闘①:ウンベルト・バルディーニとウーゴ・プロカッチ ―
 (前編ー「救急病院」リモナイア修復所の開設)

図1. 1966年の洪水の被害マップ
Clark, Robert. Dark Water, New York: Random House, a spread, 2009.

 「フィレンツェという町は、ずっと洪水と共に生きている。ただそのことを、私たちは時々、忘れてしまうんです」

 1996年、ウンベルト・バルディーニは、『フィレンツェ・アート・ニュース』の記者サンドロ・ピントゥスからのインタビューに静かな語り口で答えた。

  「フィレンツェ中心部は、100年ごとに大きな洪水に襲われています。19世紀半ばにも市街の大部分が壊滅したことがありました。大きな洪水としては、1333年と16世紀中頃のものがありますが、1966年のそれは、過去のいずれの洪水をも超える規模でした。フィレンツェ市民は、洪水に慣れ、洪水と共に生きなくてはならないと、私は考えています。でも、こういった過去の記憶というのは、しばしば失われてしまう。一定の時間が経過すると、忘れてしまうんです。今の若者は、1966年に何が起こったのかを知りません。大切なのは、人々の意識のなかに過去の出来事を刻み残し続けることです。洪水が発生したときに起きた大惨事(カタストロフ)の原因は、人々の準備不足にありました。私たちは、『洪水』がどんなものであるのかを、忘れていたんです1

 バルディーニという人は、「常にどこかを移動している」「とにかく仕事を常に抱えていて、なかなかつかまらない」と周囲がこぼすほどに多忙な男性であったが、このインタビューが行われた前年の1995年にはとりわけ精力的な活躍ぶりをみせ、新聞紙上をたびたび賑わせていた。長らく書き進めていた『フィレンツェ大聖堂と洗礼堂』を上梓したほか、芸術と保存修復分野に残した偉大な功績を讃えられ、文化芸術金賞を授賞したのも、95年のことである。
 そして、1996年。冒頭のインタビューが行われたこの年が、アルノ川洪水をめぐる研究において重要なのは、洪水がフィレンツェに何を与え何を奪い去ったかについて、あるいは文化財レスキューの未来について、バルディーニがまとまった量の取材に応じ、公の場で語る場を多く設けた最後の年でもあるからである。10年後の節目の年である2006年には、バルディーニはもう同様の機会をもつことができなかった。何故なら、フィレンツェが生んだこの偉大な美術史家は、夏の日射しが強く照りつける8月16日に、この世を去るからである。

 しかし、それはまだしばらく先の話である。洪水から40年の節目に、バルディーニはフィレンツェのそこかしこへ出向き、1966年11月の悲劇と、フィレンツェ市が辿ってきた復興の道程を語っていた。
 洪水を乗り越え、失われ損なわれた貴重な文化財を修復し、芸術都市フィレンツェとして誇り高く輝き続けること──洪水直後から、フィレンツェで美術や歴史に携わる職に就いていた人々はもちろんのこと、住民ひとりひとりがこの目標を旨に、情熱的に文化財レスキューに励んできた。とはいえ、何十年という年月が積み重ねられるにつれ、次第に洪水の残した爪痕は日常生活のなかで目立たなくなり、失われた証言や徐々に忘れさられていった記憶が多い。しかし、どれだけ時間が経ったとしても、あの過酷な日々のなかで文化財レスキューの立役者となったフィレンツェの「偉人」たちへ向けられる敬愛と感謝の眼差しは変わらなかった。
 いち早く収蔵書物のレスキューを開始し、夜を徹して作業を行い、状況を悠長にも見学にやってきた政府高官に対して「すみませんが、事態は急を要するのです。状況をご説明している暇はありません。お願いですから、私たちに仕事をさせてください」と毅然といい放った国立図書館館長のエマヌエーレ・カサマッシマ。損傷した作品の数と状態を把握し、すぐさま保管庫を設け、行政との連携をとった美術史家ウーゴ・プロカッチ。そして、プロカッチの良き友人であり、国立輝石修復研究所の代表としてフィレンツェ修復界を牽引していくことになる美術史家ウンベルト・バルディーニ。三人の声に、人々は常に注意深く耳を傾けてきた。彼らが常に主張してきたことがある。それは「思い出し続けること」の重要さであった。実際、1996年のインタビューでも、バルディーニは、洪水の記憶を薄れさせてはいけない、と繰り返している。

 サンドロ・ピントゥス:「1966年以降、洪水から文化財を守るために、どのような方策をとっていらっしゃいましたか?」
 ウンベルト・バルディーニ:「もう二度と作品が水によって押し流されたりすることのないように、それまで地上階に展示されていた作品は可能な限り上の階へと移動しました。こうした対策が不可能な作品の場合には、保護のための特殊な設備を配しています。とはいえ、アルノ川自体に関していえば、土手を少し高くしたくらいで、当時から大きな変化があったとは思えませんね。……とにかく大切なのは、あの時何が起きたのかを示すことです。そして、人間の身に何が起きうるのかということを、しっかり見据えること。フィレンツェが抱えている問題は、慢性的な交通渋滞だけではない、そこには『洪水』というものがあるのです。水を吸収し衝撃を柔らげてくれる森林がない今、もし1966年レベルの洪水が発生すれば、水は前回到達した高さから2メートル上まで襲ってくるでしょう2

 どれほど貴重な文化財が失われ、どれほど大きな衝撃を受けたとしても、徐々に私たちは──良くも悪くも──その状態に慣れていくものなのだ、とバルディーニは言う。バルディーニがこうしてある種の「忘却」に想いを馳せるのは、あの日から3ヶ月、1年と時が過ぎるにつれ、文化財レスキューのために駆けつけたボランティア、通称「泥の天使たち」の緊迫感が薄れ、やがて櫛の歯が抜けるように帰国していった状況を見ていたからかもしれない。

図2)国立図書館「泥の天使たち」の作業風景 Lee, David. Triumph from Tragedy,Firenze: Edizione Polistampa, 2006, pp. 52-53.

図2)国立図書館「泥の天使たち」の作業風景
Lee, David. Triumph from Tragedy,Firenze: Edizione Polistampa, 2006, pp. 52-53.

 大洪水から1週間後の1966年11月11日金曜日に、再び舞い戻ってみよう。国立図書館では、今日も「天使」が泥から紙資料を引っ張りあげ、一葉一葉を洗浄し、駅のボイラー・ハウスに設けられた臨時作業台の上で資料を乾かし閉じなおす作業にあたっていた。世界中から集結した「天使」の数は、優に1000人を超えていた。いまだ宿泊施設のガスや水道は完全には機能していなかったが、フィレンツェ市街のB&Bやドミトリーは、押し寄せた「天使」で満室であった。彼らは朝目覚めると簡単な朝食を取り、図書館へ向かい、せっせと夕刻まで作業にあたった3。ただしそこには、1週間前の張りつめた緊張感はもう見受けられない。誰かが持ち込んだトランジスタ・ラジオからは、ビーチ・ボーイズの曲が流れていた。彼らは作業の合間に歌い、煙草を吸って、こまめに休憩をとっては冗談をいい合い、笑いながら軽食を取った。11月のフィレンツェはすでに冷え込みが厳しい。身体や口を動かし、軽快な音楽で精神を高揚させないことには、震えがとまらないほど寒かったのである。
 ウフィツィ美術館の資料庫でも、同様の作業が行われていた。美術を専攻する学生であったシルヴィア・メローニは、ある泥まみれの作品を丁寧に拭っていた。半分ほど泥をよけたところで、「まさか」と、メローニの手が一瞬止まった。思い違いではないか、と自問しながらも手を動かし続けた彼女は、最後に泥の下から表れた画面を見て、ぽつりと呟いた「これ、ベラスケスの肖像画だわ!」──そのとおりであった。
 確かに、洪水直後の悲壮感は薄れつつあった。しかし、洪水を題材にしたノンフィクション『暗い水』を書いたロバート・クラークもいうように、こうしたささやかで偉大な「発掘作業」は起こり続け、奇跡の瞬間は止むことなく訪れ続けた4

 この日、アメリカから文化財レスキューのためフィレンツェにやってきていたルネサンス美術の専門家フレデリック・ハートは、立ち働く若者たちを見回しながら、「人類の文化史上において、特別な位置を占めているかけがえのない町がふたつある。ひとつがアテネ、もうひとつがフィレンツェだ」と、かつて自著内で述べた見解を力強く繰り返した5。「だから、このふたつの町のうち、どちらかひとつに何かが起きた時、文明人である私たちには、そこへ救いの手を差し伸べなければいけないという道徳的な義務があるんだよ」
 ハートもまた、洪水をめぐる一連の動きのなかで重要な役割を果たす人物である。彼は、洪水後の保存修復を祖国アメリカからサポートした。11月4日の惨事を耳にした瞬間から、ハートは、フィレンツェに今一番必要な「救いの手」が具体的に何を意味するのかを精確に理解していたし、また、それを与えることの出来る力を持っていた。第一に修復のエキスパートたち、第二に資金である。彼は、ブラウン大学のフレッド・リクトに続き、イタリアのウーゴ・プロカッチと連携を取ると、保存修復分野の権威ローレンス・マイェフスキ教授(当時、教授はハーバード大学率いる「古代ギリシア都市サラディス調査発掘団」の主任修復家であった)をチーフとする16人の修復家たちをフィレンツェに派遣した。さらに、アメリカの各大学施設とイタリアのヴィラ・イタッティ(ハーバード大学附属ルネサンス美術研究センター)の研究者を中核とする「CRIA—イタリア美術修復委員会(Committee to Rescue Italian Art)」を設立し、被災した美術作品のレスキューと保存修復を長期的に支援する体制をつくっている。
 ハートの力を借り国際的な支援体制を整えるのと並行して、プロカッチは被災した文化財を一時的に収蔵し、集中的な処置をほどこすための大きな「病院」を整えようとしていた。条件は幾つかある。まず、十分なスペースがあること。そして、作品をスムーズに移動することが可能なアクセスの良い市内であること。照明設備がしっかりとしていて部屋が明るく、作業がしやすい環境であること。そして文化財を「入院」させるのにふさわしい場所であること──。選ばれたのは、ピッティ宮殿のボーボリ庭園内に位置するリモナイア(Limonaia)であった。

図3)リモナイア内部作業場風景(1960年代)
AA. VV. Conservation Legacies of the Florence Flood of 1966, London: Archetype Publications, 2009, p. 172.

 リモナイアは文字通り、檸檬(Limone)等の柑橘類を冬季の間栽培するための温室である。メディチ家にかわってフィレンツェの覇権を握ったロレーナのピエトロ・レオポルドが、1777年〜78年頃にリモナイアを建築した当時、彼の地は世にも珍しい柑橘類のコレクションを誇っていた。ほぼ2世紀を経た今、プロカッチは、この歴史ある建物のなかに、たわわに実る檸檬にかわってフィレンツェが生み出してきた芸術の果実をおさめようとしていた。ただし、プロカッチとしては、すぐさま被災作品のすべてをリモナイアに運ぶつもりはなかった。町全体が傷つき疲弊している今、美術館や聖堂から彼らの誇る作品までもをごっそり運び出すことは、市民にとってあまりに酷であろうと考えたからである。

 「フィレンツェの人々には、クリスマスの贈り物が必要だと思うんだ」とプロカッチは、バルディーニらに自らの考えを打ち明けた。「12月までに可能な限り市内の美術館内の掃除と整頓を進めよう。そして、一時的にでも部分的でもいい、美術館を開館しよう。一目でも、皆に洪水以前の生活を、美術に溢れた日々を味わってもらえるように。そして、その日を良い区切りにして、をリモナイアに運ぶというのはどうだろう」
 例のあれ、とは、他でもないサンタ・クローチェ聖堂のチマブーエ《十字架降下》のことである。《十字架降下》は洪水から2日後の11月6日、青ざめるバルディーニやプロカッチの見守るなかで物理的に地平に「降下」され、仰向けにされて、修道院の食堂内に置かれていた。リモナイアに輸送されるまでの4週間、多くの人々が聖堂に脚を向け、傷つきぼろぼろになったキリスト像を悼んだ。しかし、いつまでもここに置いておくわけにはいかない。《十字架降下》は、落ち着いて修復家たちが調査や作業に従事できるような、より安定した場所へと移動する必要があった。

図4)搬出されるチマブーエ《十字架降下》
Lee, David. Triumph from Tragedy,Firenze: Edizione Polistampa, 2006, p. 73.

 12月2日。いよいよリモナイアに《十字架降下》が輸送されることになった。20人の作業者が力を合わせて作品を聖堂から運び出し、輸送用トラックに載せ、慎重に固定した。時速24キロを決して超えないよう指示されていたドライバーは、サン・ニコロ橋をわたってアルノ川を超え、広場を通過し、緩やかな山道を登ってリモナイアに向かった。道ゆく市民のうちの幾人かは、大きなトラックの積み荷の中身を一目で理解した。ドライバーは、道ばたで跪き、胸元で十字を切る人々を目撃したという6

1 Pintus, Sandro. Intervista a Umberto Baldini, Firenze Art News, 1996
2 Ibid.
3 当時集まった若者たちの数の多さはフィレンツェの美術関係者の予想を大きく上回っていた。皮肉なことに、フィレンツェの文化財レスキューを進めるにあたり「あまりにも人が集まりすぎた」ことが時にトラブルを引き起こしていたのもまた事実である。市長のバルジェッリーニ氏は、被災文化財レスキューのボランティアが1000人を超えた時点で「こんなに大勢、子供たちばかり……一体どうしろというんだ」と思わず口にしている。Clark, Robert. Dark Water, New York: Random House, 2009, p. 196.
4 Clark,Op.cit.
5 Hartt, Frederick. “Art and Freedom in Quattrocento Florence,” in Essays in Memory of Karl Lehmann, ed. L. Freeman Sandler, New York: Locust Valley, 1964, pp. 120, 123, 127 and 130.
6 Clark, Op.cit., p. 210.