1966年11月4日、フィレンツェーアルノ川大洪水の被害と復興の道のり
3. 「天使」の誕生 ― 11月5日
4日を乗り越えたフィレンツェに、新しい朝がやってきた。とはいえ、いまだフィレンツェは水浸しのままである。太陽は、時折思い出したかのように明るい顔をのぞかせるものの、雲行きは不安定で、空はにぶい鉛色をしている。水がひき地面が見え出したのは、5日の夜半になってからのことであった。そしてその頃に、人々はようやく家の外へと歩み出すことができ、それぞれの家が受けた被害を見回りはじめることになる。
「すべては突然でした。何の前触れもなく、何の心構えもないままにはじまったのです。そして水がひきはじめた翌日の5日、人々は外を見て、驚きました。そこにあるのは、なにもかもが失われた街でした。彼らはこの日、どれほど破壊が大きかったのかということを理解したのです。(略)非人間的で、悲しい光景でした。まるで戦争のように1」
映画監督フランコ・ゼッフィレッリが1966年から着手した洪水の記録映画『フィレンツェのために』のなかで、私たちは5日の様子を知ることができる。ナレーションをつとめているのは、イギリスの俳優リチャード・バートン。カメラをまっすぐに見つめ、英語なまりのイタリア語で、一言一言を噛み締めるように発する姿が印象深い。
「私の名前は、リチャード・バートンです。皆さん、私のつたないイタリア語をどうかおゆるしください。イタリア語を完璧に話すことはできません。それでも、私は、翻訳を介さず自分の言葉で、イタリアとフィレンツェに起こった出来事を語りたいのです2」
「泥。重い泥がすべてを覆い尽くしていました。そして水流はすべてを押し流してしまっていたのです」。
恐怖の一日から一晩あけて、人々が目にしたのは彼ら自身が住む街の様子だけではない(図1)。

図1 フィレンツェとヴェネツィアでの洪水被害を伝える新聞記事(11月6日)
11月の雨は、フィレンツェ以外の各地にも、壊滅的な被害を与えていた。イタリア北部のトレント自治区のテレビニュースは、22人の死者と、家を失い途方にくれる500人もの被災者の様子を繰り返し伝えていた(図2)。

図2 トレント地域での洪水被害を伝える新聞記事(11月6日)
ヴェネツィアでは、早い時間に雨こそ降りやんでいたものの、独立広場は文字通り「湖のよう」であった。5日の昼頃になって、建物内に閉じ込められた官庁の職員らを救出するため、漁師用の長靴をはいた消防士たちが集まりはじめると、新聞記者も次々と駆けつけてきた(図3)。近郊の小さな街で救助活動中に命を落とした人々の名前などが明らかになったのも、この日、5日のことであった。ただし、正確な被害者の人数の把握には、さらに数日が要される3。

図3 ヴェネツィア中心街、洪水の様子(1966年洪水アーカイヴ)
この頃、モデナでも、「イタリア北部と中央部は壊滅的な状況」と報道されている。セッキカ川とパナロ川の領域、あわせて16,400ヘクタールもの土地が浸水し、荒れ果てた。ジャーナリストのフランチェスコ・バラルディは、「世紀を通して最大かつ最悪の被害」であったと振り返る4。被災した当時、14歳の少女であったティツィアーナ・レヴォルティは、今もあの日々の恐怖を忘れることができない、とインタビューに答えている。
「(今も覚えているのは)両親の叫び声、そして上の階へと避難したこと……(略)2、3日は上のコンドミニアムに住んでいた人の家にお邪魔して、お世話になりました。やがて軍の方々がボートでやってきて、私たち家族を助け出してくれたんです。私たちみたいな子供にとっては、そんなことが実はちょっと素敵に思えたりもしましたけど、両親は様々な心配事のために憔悴しきっていました。家に車庫がなかったので、(道ばたに駐車していた)父の車は完全に水没してしまいましたしね。ま、きつい体験ではあったと思います5」
11月5日。この日は、洪水で水につかった街がまだ乾ききる前から、すでにフィレンツェは復興へ向けての道を歩みはじめていた。「油にまみれた汚泥から文化財を『解放』せよ」−トスカーナ州レジスタンス歴史協会(ISRT)のカルロ・フランコヴィッチをはじめ、トスカーナの歴史遺産や美術作品の管理や継承、保護にかかわる多くの人々の多くが、声をあげはじめた。驚くべきことに、後に「泥の天使たち Angeli del fango」の名で知られるようになる文化財レスキュー隊は、すでにこの5日から組織され、活動をはじめていたのである。前述のフランコヴィッチの呼びかけに答えまず動きだしたのは、シラクーサ大学に通うアメリカ人の学生、シエナ大学とフィレンツェ大学の学生たち、そしてトスカーナ州のコムーネであるピオンビーノに住まう若者たちであった6(図4)。

図4 「泥の天使たち」による作品の緊急避難(1966年洪水アーカイヴ)
この輪は徐々に広がってゆき、次第に紙、彫刻、絵画、修復の専門家らも参加するようになってゆく。ただし、最初に手足を動かし、フィレンツェを目指したのは、他ならぬ若者たちだった。彼らは声をかけあい、集まり、泥の中から、歴史の証言者である書籍や絵画を黙々と救い上げていった。
後に、アメリカ合衆国やイギリスの新聞社をはじめ、世界中の報道機関が大きく取り上げることになる「泥の天使たち」−各国の人々が自然と集まり生まれたボランティアの働きが、今もなお人々の心に輝かしく刻み込まれている背景には、肝心のイタリア政府の初動がかなり遅れたという事情がある。実際のところ、前章でも言及したヴェッキオ橋の宝石商たちのなかには、もう少し報道が早ければ十分に対策を行って貴石を守ることができたであろうに、と憤りをもって当時を振り返る人々も少なくない。工房に寝泊まりしている者のうち何人かは、夜中にかかってきた電話で叩き起こされ、とにかくすぐに避難するようにと勧告を受けて、着の身着のままで外へと飛び出した(図5)。商売道具である機器や、陳列された宝石類をすべて移動させることのできた者はいなかった。

図5 洪水後、汚泥のつまったヴェッキオ橋の様子(1966年洪水アーカイヴ)
確かに、『フィレンツェのために』には、激しく打ち寄せる波にもまれ、今にも沈みそうになっているヴェッキオ橋と、街中を駆け巡る濁流のなかを木の葉のように頼りなく流されてゆく大型車や木材が確かに映っている。
1966年のアルノ川洪水は、暴れ川沿いの土地で歴史と文化を育んできたフィレンツェ市とその近郊の街の防備、予防措置の不足を露呈することとなったのである。イタリア政府が本格的に復興にのりだしたのは、洪水から6日も後であった。「泥の天使たち」の迅速な文化財レスキューがなければ、どれほど多くのものが失われたかしれない、と、美術史家のマルコ・チャッティをはじめ、多くの専門家たちは当時を振り返る。
アルノ川の洪水からほどない街の様子を背景に、リチャード・バートンは語り続ける。
「皆さん、今、フィレンツェはすべての人からの助けを必要としています。そう、フィレンツェは世界のものであり、だからフィレンツェは私の街でもあるのです。私たちに出来ることは、この町が与えてくれたものに比べれば、ほんとうにささやかです。今、私たちにできることの限りをつくしましょう。あの町に、少しでも早く戻れるように7」
1 Zeffirelli, Franco. Per Firenze, 1966.
2 Ibid.
3 Blasoni, Mario. “Il ricordo del cronista: un boato sordo e poi l’acqua in piazza”in Messaggero Veneto, 01 settembre 2015.
4 Baraldi, Francesca. “Alluvione Modena, 41 anni dopo la storia si ripete”in MODENA TODAY, 22 gennaio 2014.
5 BIntervista : Alluvione a Trento negli anni ’60, DNA trentino, 23 Febbraio 2016,
https://www.youtube.com/watch?v=MxpuXzTYlmY.
6 Feancovich, Carlo. L’istituto storico della Resistenza, Ivi, pag.1430.
7 Zeffirelli, Franco. Per Firenze, 1966.