Essay修復家の小論

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1966年11月4日、フィレンツェーアルノ川大洪水の被害と復興の道のり
 2. 溢れた川 ― 11月4日

 11月4日、午前0時過ぎ。
 トスカーナ地方の各地で崖崩れが発生していた。郊外に住む人々は、すぐ近くにまで迫っているらしい水の気配に恐れをなし、屋根の上へとのぼるべきか否かを思案しはじめていた。古代都市エトルリアの首都であったアレッツォをはじめ、アルノ川中流に臨む美しい街の数々は、すでにフィレンツェと連絡がつかない状態にあった。
一方、フィレンツェの中心街に住む市民の一部は、まさか川が氾濫するまでの事態になるとは夢にも思わず、雨音を気にしつつも夜ふかしを楽しんでいたらしい。というのも、11月4日は第一次世界大戦勝利記念日であり、本来であれば祝日であったためだ。当然ながら、徐々に水位を上げるアルノ川の様子に、これはただごとではないと危機感をつのらせる者達もいて、そんな彼らが川沿いの道を不安げに行きつ戻りつしていた様子が目撃されている。1時過ぎには、警察官、知事、市長らが集まり、町中の鐘を鳴らしフィレンツェ市民たちに注意を促すべきか、それとも大パニックを避けるために、これ以上事態が悪化しないことを祈りつつ静観するかについて、簡単な話し合いがもたれた。彼らが選んだのは「とりあえず様子を見る」という道であった。

 午前2時。ムニョーネ川の土手が崩壊し、氾濫する。下水が溢れ、徐々に市街地の方へ――チマブーエ《十字架降下》のあるサンタ・クローチェ地区へとむかって――押し寄せてきていた。

 この頃、一本の電話の向こう側で絶えてしまった命がある。
 フィレンツェの地元紙『ラ・ナツィオーネ』の記者、フランコ・ネンチーニは、受話器を握りしめ、「逃げろ!」と叫んでいた。電話の向こうにいたのは、フィレンツェ市に水を供給しているアンコネッラ水道で夜勤にあたっていた52歳の男性、カルロ・マッジョレッリである。マッジョレッリは前日の3日の夜20時に、フィレンツェ近郊の小さな集落、ポッツォラティコの自宅から、長距離バスに乗っていつもどおり勤務先へやってきた。彼の仕事用の鞄のなかには、ポットにつめたコーヒー、ほんの少しのパン、そして煙草が入っていた1。夜勤に欠かせない品々。いつもどおりの日用品。そう、それは、マッジョレッリにとって、本当になんということのない、あたりまえの、普段通りの一夜になるはずだったのだ。
記者のネンチーニが 夜勤中のマッジョレッリに取材の電話をかけたのは、真夜中の2時頃であった。一体何が起きているのか、フィレンツツェの状況を教えてほしい、との問いかけに、マッジョレッリは苦しげに答えた。
「こちらはひどい状態だ、皆逃げていったよ……1時間ほど前に、機器類をすべて止めたんだ」
「君もそこから逃げるんだ、それも今すぐにだよ!」
「施設の管理をまかされている以上、投げ出すわけにはいかない」それに、とマッジョレッリは静かに続けた。「いずれにせよ、もう避難できるような状況じゃないんだ。外には出られなさそうだよ」
 それでも繰り返し、なんとか逃げるようにと説得にかかるネンチーニだったが、まもなく電話は切れ、そして二度とかからなかった。氾濫したアルノ川の濁流が、電話線を断ち切ったのである。泥まみれのマッジョレッリが遺体で発見されたのは、その二日後だった。彼は、最後まで職場を離れようとしなかったことになる。
 現在、アンコネッラ水道付近にある緑豊かな「カルロ・マッジョレッリ通り」が誰の名に由来するものなのか、その背後にどんな一夜があったのか、知る人はそう多くはない。実際には、この通りの名は、1966年の夜、電話のむこうで絶命した一人の作業員に由来するものなのである(図1)。

図1 カルロ・マッジョレッリ墓石(個人撮影)

図1 カルロ・マッジョレッリ墓石(個人撮影)

 午前4時。アルノ川の水はついに溢れ、街中の小道へと走りだした。サン・ニコロ地区、サント・スピリト地区、サン・フレディアーノ地区……商店や画廊が並ぶサンタ・クローチェ地区にどっと水が流れ込んだのもこの時間帯であり、明け方を前に街の灯りが落ちた。停電である。フィレンツェ近郊の駅でも、次々と浸水が報告される。それでもまだ、人々の多くが、これはアルノ川が時折おこす「ちょっとした気まぐれ」にすぎず、悪くしても堤防が数十センチほど流される程度の被害にすぎないだろうと考えていた。水没しつつある各地の様子を確認していながら、この時点でもまだ警報が発令されていなかった地区があったことについて、市の判断の遅さに批判が集まるのは、数年後のことである2

 午前5時。ヴェッキオ橋の上に軒をつらねている宝石商のうち幾人かは、店頭のガラスケースに並ぶ宝石類のうち高価なものを奥にしまいはじめた。これは英断であったといえるだろう。というのも、実際、彼らがこのタイミングで商品を避難させる決断を下したことで、失われずにすんだ高価な品々が数多くあったからだ。洪水後に撮影されたヴェッキオ橋周辺の映像には、同エリアの店から押し流されて泥まみれになった宝石類を、道ばたからひとつひとつ拾い上げる店員や職人の姿が記録されている。

 午前6時50分。アルノ川の水流は、ついに、国立中央図書館へと到達した。120万点の書籍や手稿、そして6万枚の書誌検索カードが、漏れ出したガソリンを含む油混じりの泥水により被害を受けるという、悲劇のはじまりであった。
 現在の国立中央図書館は、古い建築物が数多いフィレンツェの街中にあって、1911年という、比較的近年に建設がはじまり、世界大戦を間に挟んで1935年に完成している。新しいものとなれば堅牢で安全なように思えるが、実のところ、この図書館には致命的な弱点があった。まず、立地である。図書館はその正面がアルノ川の土手に面しており、真下を川が流れている。建設場所を選択する際に、1904年にトリノ市の中央図書が、火災によって数多くの写本を失った出来事を教訓としたフィレンツェ市は、万が一の火災に備えて鎮火のための水の便を考えアルノ川河岸の場所を選んだのである(図2)3

図2 フィレンツェ国立中央図書館(個人撮影)

 1966年の事態を思えば、まさに皮肉としかいいようがない。書庫の位置もまた、問題であった。というのも、中世・ルネッサンス時代から受け継がれてきた貴重な書籍や史料のうちとりわけ重要なものは、地下の書庫に――洪水で浸水がとりわけ激しかった場所に――収蔵されていたのである。
 たまたまこの時期、スイスのジュネーヴで国際会議に出席していたアメリカの連邦上院議員エドワード・ケネディは、大洪水のニュースを耳にして即スケジュールを調整し、フィレンツェへ向かっている。街に到着したケネディがまず訪問したのが、ここ、国立中央図書館であった。惨状に大きなショックを受けたケネディは、当時の様子を次のように語っている。
「館内は完全に停電していたが、書籍を救いだすために必要最低限な灯りだけはなんとか確保しようとしたのか、キャンドルが置かれていた。ひどく寒くて、(手伝いの)学生たちはといえば、腰まで水につかっているような状態だった。彼らは列をつくって、次々と本を手渡すことで、より安全な場所へと避難させているところだった。一番広い閲覧室を上から見下ろすと、そこに何百人もの若者たちが集まって本を救い出そうとしていた。(しばらくして)ジュネーヴに戻る飛行機に再び乗り込んだときも、震えがとまらなかったよ。そして、さきほど目にしたばかりの荘厳な光景について、考えずにはいられなかった。ちらちらと揺れるキャンドルの光のもとで、冷たい泥水を物ともせず、静かに本を救い出すことに集中していたあの若者たちの姿を、私は決して忘れることはないだろう」
前年度の1965年に館長に就任したばかりであったエマヌエーレ・カサマッシマの迅速な指揮のもと、国立中央図書館はこの後、蔵書のレスキューと応急処置に全力を注いでゆくことになる(図3)。

図3 損傷した書籍群(1966年洪水アーカイヴ)

図3 損傷した書籍群(1966年洪水アーカイヴ)

 午前7時。イタリア放送協会フィレンツェ支局の代表をつとめていたジャーナリストのマルチェッロ・ジャンニーニは、ローマ本部に電話をかけ、悲惨な状況を言葉の限りをつくして説明しようと試みていた。しかし、実際にアルノ川の濁流を目にしていないローマの人々には、切迫した状況が伝わりきらなかったらしい。言葉では埒があかない、と考えた彼は、その日の定時ラジオで、放送局の窓の外へとマイクを差しのばし、ごうごうと音を立ててフィレンツエの街を駆け巡る水の音を届けた。「ほら、どうだ」ジャンニーニはラジオの向こうの人々へと語りかけた。「ローマにいたんじゃ、この音は聞こえないだろうからね。いいかい皆、今君たちが聞いている音はアルノ川の音ではないんだ。この音は、カレッターニ通りの音だ、パンツァーニ通りの音だ……そう、水に飲み込まれたフィレンツェの市街地がたてている音なんだ」

 午前9時。アルノ川の水はフィレンツェのドゥオーモに辿り着いてしまう。その30分後には、市街地の住宅の一階部分すべてに浸水。ヴェッキオ宮殿の市庁舎では、市長のピエロ・バルジェッリーニが水をかきわけながらようやく救援の要請を出した。

 午前10時。街中の鐘が打ち鳴らされはじめる。鐘を鳴らしたりしたら最後、集団のパニックを引き起こしかねない、と止める者は、もはや誰一人いない。少しでも高いところへ、一階ではなく二階へ、と、人々は声をかけあい、避難した。
 さて、美術館の様子にも目を向けて見てみよう。
 前章に登場した、ガリレオ博物館の館長マリア・ルイザ・リギーニ・ボネッリは、浸水してしまった館内で一人、洪水の日を迎えることになった。「なんとしてでも作品を守らなくてはならない」隣の建物の方がより堅牢であると判断した彼女は、意を決して建物の軒に帯状に取り付けた突出部分(軒蛇腹) をつたって、隣の建物と博物館を行き来しながら、次々に収蔵品を移動した。彼女のこの判断は、アルノ川氾濫という一大事にあってフィレンツェの美術史家が見せたもっとも勇気ある英断として、その後何年もにわたって語り継がれることになる。洪水後には、作品のコンディションを確認し、すみやかに修復を進めた。ボネッリの尽力は実を結び、はやくも洪水の翌年、1967年には博物館は再オープンすることができたのである(図4)。

図4 作品の救助を行うマリア・ルイザ・リギーニ・ボネッリ(ガリレオ博物館サイト資料)

 モザイクや壁画の専門家である美術史家のイヴ・ボルソックは、4日の朝、サンタ・クローチェ聖堂に立ち寄り、ウーゴ・プロカッチやウンベルト・バルディーニのアシスタントをつとめている。大勢の作業員が、すでに美術館に集合していた。作品を壁から取り外すよう指示しながら、国立貴石修復研究所のウンベルト・バルディーニやウーゴ・プロカッチらが涙を流していたことを、イヴをはじめ、多くの作業員は記録している。
 ウンベルト・バルディーニとウーゴ・プロカッチは、市街地が大きなダメージを受けてほどなくして、ウフィツィ美術館にも駆けつけている。「多くの作品が傷を負いました。フィリッポ・リッピの《聖母戴冠》も、マザッチョの《聖母像》も、シモーネ・マルティーニ作品も……」と、文化財レスキューに携ったジョルジョ・ボッカは当時を思い起こして絶句する(図5)。

図5 ウフィツィ美術館から作品を運び出す若者たち(1966年洪水アーカイヴ)

 一方、街中では、人々は避難した屋根の上で、友情を育みつつあった。煙草をわけあい、食べ物をわけあい、非常事態を嘆き合いながら、彼らは喋りに喋った。何かを話し続けていなければ、身も心ももたなかったこともあるだろう。フィレンツェの多くの人々が、この朝10時から水が引きはじめた20時までの10時間の間に屋根の上で多くの見知らぬ人々−−−−あるいはご近所さんであっても、これまでは親しく言葉を交わしたことがなかった人々−−−−と「おしゃべり」をして過ごしたことを、なつかしく、あたたかな記憶として語る(図6)。未曾有の災害に見舞われた彼らのうちには、途方にくれながらも、その状況をどこか余裕を持って受け止め、笑顔で乗り切ろうとした人々がいた。

図6 洪水後のフィレンツェ市民たち(1966年洪水アーカイヴ)

 午後20時。徐々にフィレンツェ市街から水が引きはじめ、暴れ川は本来の自らの場所へと、じりじり後退していった。水位は実に6mにまで及んだ。町中が泥に溢れ、油っぽい水でべっとりと濡れそぼっていた。
尊い命が失われた。多くの文化財が損失した。馬が絶命し、道ばたに倒れている。今まで見たこともなかったような、凄まじい光景が広がっていた。しかし、また朝がやってきた。1966年11月5日、太陽の光が垣間見えたその日から、フィレンツェの復興がはじまった。

1 Giusti, Ernst “CARLO MAGGIORELLI, EROE SCONOSCIUTO DELL’ALLUVIONE DI FIRENZE” in Firenzepost, 04 novembre 2013, 00:25.
2 Carniani, Mario e Paoletti, Mario. “Firenze Guerra & alluvione” Firenze: Becocci Editore, 1991.
3 「フィレンツェ国立中央図書館の書籍修復工房を訪ねて」2014年1月18日http://ambiente.jp/ambiente/news.html