Essay修復家の小論

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1966年11月4日、フィレンツェーアルノ川大洪水の被害と復興の道のり
1. 前夜 ― 11月3日

フィレンツェの街は、三つの「11月3日」を記憶している。
そのいずれもが、アルノ川によって街が破壊された「洪水の日」あるいはその前夜である。第一の洪水は1333年に、第二のそれは1844年に、そして最後は1966年に訪れた。
アルノ川は、フィレンツェと地中海を結ぶ水路として古くから重用されてきた、全長245kmの河川である(図1)。フィレンツェの歴史を紐とけば、アルノ川こそが町を育て、守ってきた存在であることは明白だろう。そもそも、フィレンツェ市の基礎がつくられたのはカエサルの統制下にあった古代ローマ時代のことであるが、この街は、アルノ川とムニョーネ川に挟まれるかたちをとって形成されていった。平野を横切るように川が流れ、高台に街道があることから、フィレンツェは戦略的に非常に有利なつくりをもつ街として、強固な防衛を誇った。アルノ川は、どの時代にあっても諸外国との交流の重要な拠点であり続け、フィレンツェの商業と貿易は、まさにこの水路のおかげで繁栄していくことになる。

図1 フィレンツェ、アルノ川 (Photo by Dennis Javis, Italy−1060−Reflections of Florence)

フィレンツェに豊かさをもたらしたこの川は、しかし、繰り返し災厄をもたらす存在でもあった。上流の山に大雨が降るたびアルノ川は溢れかえるため、歴史的な大洪水が何度か記録されている。とりわけ11月のフィレンツェは気候が不安定であり、降り続く長雨は時にアルノ川を気侭な暴君へと変容させてきた。冒頭で触れたように、1333年には、奇しくも本稿が着目する1966年の洪水と同日の11月3日から4日にかけて、大洪水がフィレンツェをおそっている。当時、フィレンツェで活躍していた歴史著述家ジョヴァンニ・ヴィッラーニ(1276−1348)は、洪水の様子を「種まかれた畑をつぶし、木々を、そしてアルノ川付近の家や建物を根こそぎなぎ倒した」と証言している1。教会も居住地域も徹底的に破壊されたため、人々は避難生活を余儀なくされた。フィレンツェの人々が被った悲劇、そして彼らが抱いた恐怖心は計り知れない、とヴィッラーニの記述は続く。当時、どのような復興計画が立てられ、また、修復が実行されたかについては資料が不足しているが、ヴィッラーニによれば、「フィレンツェ市内でも、もっとも深刻な損傷を受けた橋や城壁、公共道路の修繕には、15万フィオリーノ(金貨)が必須」であった。1390年頃のフィレンツェ近郊における職業人たちの年俸を参照してみると、一般家庭で並の稼ぎがある人物に対して平均的に支払われるのは、年に15〜25フィオリーノほどである2 。現在の貨幣価値に照らし合わせると、1フィオリーノは約12万円となる。おおまかな復興費用の計算をしてみるだけでも、この洪水によりフィレンツェ市がどれほどの経済的打撃を受けたかは、あきらかであろう。
これほど大きな規模の氾濫でなくとも、暴れ川アルノによる被害は絶え間なかった。フィレンツェが抱える問題を目のあたりにしていたルネサンスの万能人レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452−1519)は、治水および船舶を利用した貿易による街の活性化を目的に、フィレンツェとピサを繋ぐ川の水路を整え運河を設計しようと試みていた(図2)。


チマブーエ《十字架降下》に施された補彩図2 レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『自画像』33.3×21.3cm、トリノ王立図書館、紙・赤チョーク、1513年頃 / web gallery of art)

(レオナルド・ダ・ヴィンチ『自画像』33.3×21.3cm、トリノ王立図書館、紙・赤チョーク、1513年頃 / web gallery of art)
残念ながら、この計画はあまりにも資金や手間がかかり、壮大にすぎる計画であったため実現には至らなかった。とはいえ、レオナルドは、水位を調節するための新たな水門(閘門)のシステムまでもを発案しており、そのスケッチが残されている(図3、4)。

図3 レオナルド・ダ・ヴィンチによる治水計画スケッチ①
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』アトランティコ手稿、ミラノアンブロジアーナ図書館、紙・インク、 1503 年 / Marinoni, Augusto ed. Da vinci, Leonardo. Il codice atlantico di Biblioteca Ambrosiana di Milano, Giunti: Firenze, 2000)

図4 レオナルド・ダ・ヴィンチによる治水計画スケッチ②
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』アトランティコ手稿、ミラノアンブロジアーナ図書館、紙・インク、 1495年頃 / Marinoni, Augusto ed. Da Vinci, Leonardo. Il codice atlantico di Biblioteca Ambrosiana di Milano, Giunti: Firenze, 2000)

1844年に起きた洪水時には、数多くの文化財が水に浸かり被害を受けたとの記述が残されている。既に10月からじわじわとアルノ川の水位は上がっていたが、11月3日の早朝「水位はついに2ブラッチャ(1ブラッチャは約60cm)まで上昇し、ボルゴ・サン・フレディアーノ地区、サン・ニコロ地区、オンニッサンティ聖堂付近ではさらに高くなった」のである3 。上述の地区には、多くの絵画・工芸工房が軒を連ねていた。そして、水は容赦なく「各工房内へと潜りこんでゆき、地面を這い、数多くの美術作品や家財道具を押し流した」4。(図5)

図5 1844年の洪水で溢れるアルノ川の様子
(Litografia di Muzzi e Borrani della piena dell’ Arno del 3 novembre 1844, MFCE Archivio fotografico 8256)

3日は丁度、日曜日であった。不幸中の幸いというべきか、通勤途中の人々がいなかったために、犠牲者の数はそれほど多くはなかった。トスカーナ大公レオポルド2世は、ピッティ宮を行き場のない避難民たちのために解放するのみならず、船に乗って近郊の村をまわり、人命救助につとめた5
度重なる洪水被害に危機感を覚えたフィレンツェ市は、この後、建築家ジュゼッペ・ポッジを中心とする専門家の一団に、水域の調査を依頼している。1865年2月には諸々の対策が討議され、排水溝や下水道の整備が進められた。
1333年、1844年と続いた大災害と復興に限らず、フィレンツェの歴史は、そのまま、アルノ川治水の歴史ともいえよう。街は川とともにあり、恵みを受けつつ、その強さと気まぐれに翻弄されてきたのである。
さて、1966年11月 3日は、どうだったろう。それまでの「11月3日」と同じように、この日は、数日間に及ぶ雨の末に訪れた。

朝8時。雨風は強く、アルノ川の水流はますます勢いを増していた。フィレンツェ郊外の一部では船が用意されはじめていたという。川沿いの地域では、注意深く水位の増減がモニタリングされはじめた。
壁画研究を専門とする美術史家イヴ・ボルソックは、3日からはじまった作品の救出活動に関わった人物であり、まさにその頃、街中を歩いていた。街の様子を、彼女は次のように振り返っている。「私はその日の朝、オンニッサンティ聖堂へ向かっており、スタンフォード大学からやってきていた学生と落ち合う予定でした。その日、文化財管理局の代表をつとめていたウーゴ・プロカッチから電話がかかってきて、ウフィツィ美術館写真収蔵庫から一万点ほどのネガを運びだすのを手伝ってほしいと頼まれました。写真収蔵庫は、後に洪水によって一番大きな被害を受けることになった場所です。私たちは写真ネガをハーバード大学イタリア・ルネサンス研究センター『ヴィッラ・イ・タッティ』に運びこみましたが、(その量を見ると)写真を洗って乾かすのに少なくとも10日は必要であるように思えました。翌日には、私たちはあのサンタ・クローチェ聖堂にも立ち寄ることになります。既に私が行った頃には水位は6メートルにまで上がっていて、私たちは、美術館の所蔵作品を運び出そうと試みたんです」

午後15時。風が強くなり、荒れ模様が続く。川の一部からは、氾濫がはじまっていた。この頃、国防省あてに現状を知らせる電話電報が届けられている。ローマ市からは、パニックを起こすことなく落ち着いて行動をするように、との見舞いの連絡が入る。

午後18時。アルノ川の水位は岸辺まで上がった。雨量は、一平方メートルにつき200ℓにまで達していた。水流は激しさを増してゆく。悪いことに、この時間、気温が5度ほど上昇した。そのために、山岳地帯の雪が溶け、水が川に流れ込み、水位がさらに上がってしまった。流量計は間もなく破壊されてしまったが、その直前には水位8.69メートルを記録していたという。悪天候のなか、土手の補強作業が行われつつあったが、それも街のほんの一部にすぎなかった。壁画修復家のグイド・ボッティチェッリは、「11月3日のある時点まで、事の重大さがわかっていなかったんです」と語る。「フィレンツェの大聖堂でパオロ・ウッチェロの作品を修復途中だった私は、仕事を終えた夕方、大聖堂前の広場に出ました。数日間降り続いていた雨はその時もやまずに私の上に降り注いでいました。自宅へと向かうバスのなかで、人々が、一目でわかるほどアルノ川の水位が上がっている、あれは危ない、と話しているのを耳にしました。その会話を聞くまで、私は天気に対してそう関心を払っていなかったんです。やれやれ、この雨は一体何日続くのだろう、とは思っていましたが、まさか川が決壊するかもしれないとは、想像もしていなかったのです6

午後20時半。市内は翌日の祝日を前に、大雨にもかかわらずそれほど賑わいを失っていなかったようである。TVではクリント・イーストウッド主演の映画が流れ、人々は夕食を楽しんでいる。「まだこの時間は、本当に川が氾濫するだなんて思いもしなかった」と、当時のフィレンツェで生活していた人々は語る。「ただのいつもの大雨だと思っていたのよ。だいたい、毎年同じように降るんだもの」

午後21時。市長のピエロ・バルジェッリーニは、フィレンツェ市内のミネルヴァ・ホテルで会合に出席していた。話題は政治的な事柄に終始し、洪水についてはほとんど触れられないままであった。ただし、当時、「美しい街・フィレンツェ」と題した街の清掃計画を押し進めていたバルジェッリーニが、雨の降り止まない外を見やりつつ、冗談めかしてこういったことは知られている。「(大雨のおかげで町が洗われて)『美しい街・フィレンツェ』が実現するのはまあ良いとしてもね、この降り方はちょっと度が過ぎているんじゃないかと思うね7

午後22時。フィレンツェ北部のムジェッロ地区とアレッツォ方面より、川から水が溢れ、土手が破壊されたとの緊急通知が届く。100人以上からなる救助隊が市内で組織され、上記の地区へと歩を進めた。

午後23時。消防署には、130件を超える通報が届いた。そのほとんどが、自宅のガレージなどへの浸水を訴え、救助を求める電話であった。田園地帯の住人は怯え、自宅の屋根に登りはじめた。この頃、トスカーナのレッジェッロ地区の支流の勢いに押し流された一家7人が亡くなっている。

午後24時、 アルノ川はいよいよ、水位を上げる。アレッツォとローマへ向かう自動車道と鉄道路線の一部が遮断、通行止めとなった。

刻々と時が過ぎ、町が徐々に水に浸されて住民らが不安をつのらせるなか、いくつかの美術館では、既に作品を救うため、動きはじめていた者たちがいた。ウフィツィ美術館の館長であったルイザ・ベケルッチは、美術館とピッティ宮殿を繋ぐ「ヴァザーリの回廊」に並ぶ絵画コレクションを運び出すために奮闘していた。ベケルッチの危惧は、濁流によって橋が崩れ、作品が失われるのではないか、ということであった。橋はとりあえず堅牢に見えたものの、ウーゴ・プロカッチ(1905−1991)は既にこの時点で、彼女に対し「出来るだけのことはするように」と指示を出していたという。貴重な文化財を救いだすためには、どんなリスクも負うだけの価値がある、と、彼は固く信じていたのである8。最終的に、ベッキオ橋は流されることはなかった。しかし、美術館は激しく浸水してしまうことになる。その前夜である3日に、ベケルッチはプロカッチのアドヴァイスに従うことで、数十枚の作品を救い出すことに成功していたのである。
同じ頃、市内のガリレオ博物館では、館長のマリア・ルイザ・リギーニ・ボネッリが、翌日未明に自らの両手いっぱいに展示品を抱えたまま決死の覚悟で建物の軒の凹み(軒蛇腹)をわたる、という離れ業をする羽目になるとは知らぬまま、静かに雨の様子を眺めていた。
アルノ川がついに溢れるまで、あと数時間である。

1 Villani,Giovanni. La prima parte delle Historie universali de’ suoi tempi di Giovan Villani Cittadino Fiorentino,Venezia, 1559, Libro XI, Cap. 1.
2 イオス・オリーゴ著・篠田綾子訳「プラートの商人.中世イタリアの日常生活」白水社、1997年。
3 Firenze Tipografia di Federigo Bencini, 1851.
4 Ibid.
5 Aiazzi, Giuseppe. Narrazioni istoriche delle più considerevoli inondazioni dell’Arno e notizie scientifiche sul medesimo, Piatti, Firenze,1845, p. 218.
6 Botticelli, Guido. Quarantennale dell’alluvione di Firenze:i miei ricordi, scritto sul sito, www.guidobotticelli.it. 2015.07.20.
7 Giuseppe Di Leva, Firenze: cronaca del diluvio 4 novembre 1966, Le Lettere, 1996, p. 8.
8 AA.VV., Conservation Legacies of the Florence Flood of 1966, New York University, London, 2009, p.170.