Essay修復家の小論

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1966年11月4日、フィレンツェーアルノ川大洪水の被害と復興の道のり
 おわりに - 「保存された美 Bellezza salvata」の行方、そしてイタリアへの旅

 1年にわたって連載してきた「1966年11月4日、フィレンツェ」の最終回では、イタリアへの旅について書こうと、しばらく前から決めていた。というよりも、最終回を書く前に、文中で触れてきた作品や地区をめぐり、イタリアの街をゆっくり歩きなおしてみようと決めていた。  
 思えばまた、この連載も、長い旅のようなものであった。フィレンツェという街が1966年の11月からいかなる道を辿ってきたのかを書きおこすなかで、多くの出会いがあり、新たな発見があった。資料をめくり、当時を知る人々と話し、命を落とした人々の記憶を繋ぎなおす。小さな石を積み重ねるようにして時間の針を行きつ戻りつする12ヶ月のなかで、気づけば旅立つ前の自分とはどこかしらが変わった。そんな感覚がある。

 「あなたが剥落留めをしていた作品、ほら、洪水で被災した板絵があったでしょう?ようやく修復が終わったのよ。まずメディチ・リッカルディ宮殿での展覧会に展示されるのだけど、その後、やっと元あった場所に戻るの。サンタ・クローチェ地区に帰るのよ」
 私が以前所属していたフィレンツェの工房主から連絡が来たのは、去年の秋のことだった。2016年11月30日から―つまり、洪水から数えて50年目の11月から、フィレンンツェのメディチ・リッカルディ宮殿で開催された展覧会「保存された美 Bellezza salvata」には、アルノ川の大洪水で被災した150点の文化財が並んだ。そのうちには、ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニの板絵《聖跡を受けるアッシジの聖フランチェスコ》やカルロ・ポルテッリ《無現在の御宿り》など、洪水時に最も大きなダメージを受けたサンタ・クローチェ地区にあった作品も含まれていた。

 私がフィレンツェにいた2007年当時、工房の大きな作業机の上に運び込まれたサンタ・クローチェ聖堂の板絵のことは、帰国後も気にかかっていた。洪水の水流でめくりあがり、皺がよったまま硬化してしまった絵具層を少しずつ元の水平な状態に近づけるため、小実験を繰り返しながら剥落留めをしていた当時、これほどまでに変形して隆起した表面が平らになるものだろうか、と不安になったことを覚えている。私が帰国した時にも、作品は、まだ机の上に置かれていた。後ろ髪引かれる思いで帰国したあの当時から10年もの時間が経過し、ようやく修復が完了したのだという

 2017年2月、私は作品と再会することができた。
 オフシーズンなこともあって、展覧会会場には人がほとんどいなかった。展示室はこぢんまりとしており、暗くて場所によっては作品の全体像が把握できないほどだった。展覧会に出掛ける前に一緒に昼食を取った工房主が「あまり照明が良くなくて」と展示室のしつらえにため息をついていたことを思い出しながら、それでも、10年ぶりに目にした作品の状態が目を見張るほどに良くなっていることには、感動を覚えるほかなかった。

 ひとしきり作品との再会を味わった後に、展示されている他の作品群をひとつひとつ見てまわった。サン・ドンニーノの聖アンドレア聖堂が所蔵するフランチェスコ・ボッティチーニ《戴冠の聖母子と諸聖人》は、作品の下半分が淡い橙色の補彩で覆い尽くされている(図1)。

図1 フランチェスコ・ボッティチーニ《戴冠の聖母子と諸聖人》1479-1480 修復後

図1 フランチェスコ・ボッティチーニ《戴冠の聖母子と諸聖人》1479-1480 修復後

 一見、空白が作品に触手を伸ばして飲み込もうとしているかのようにさえ見えるこの作品は、下半分が水に浸かり失われてしまった後、形態を再構成しない中間色のみでの補彩が行われた。一方、14世紀後半にフィレンツェに在住していたであろう画家によって描かれた《受胎告知》の多翼祭壇画は、何十年にもわたる修復の過程のなかで様々な方法による補彩がほどこされた結果、あたかも「修復のパッチワーク」か「時間の地図」のようになっている(図2)。聖母マリアにイエス・キリストの到来を告げる大天使ガブリエルは、顔のあたり一帯が失われ、片目ばかりが光っており、異形の存在感を放っていた。

図2 フィレンツェの画家《受胎告知》14世紀後半の多翼祭壇画 修復後

 展示されていたのは、絵画ばかりではない。水を吸ってすっかり変形し、色がにじんでしまっている写本、傷ついた無数の燭台、人体模型、彫刻。幾つかの展示物には、剥がれ落ちそうな絵具層に応急処置として張り付けられた和紙が、現在も残されている。資金が不足して、修復途上のまま何年も置かれている作品群もある。各展示作品の現状が、1966年の被害の大きさを静かに物語っていた。この街が有する文化財の修復がまだ道半ばであること、フィレンツェがいまだ多くの傷を負ったままであることは、疑う余地がなかった。
 フィレンツェ市国立美術館連合特別監督局長クリスティーナ・アチディーニは、展覧会開催にあたり、当時あの場にいなかった人々のもとに、記憶、そしてある特殊な感性を伝承するためのツールとして展覧会が機能することを願う、と言葉を寄せている。「ある特殊な感性」とは、つまるところ、この展覧会に並ぶ作品群すべてにほどこされた、様々な保存・修復の技法と思想を指すだろう。徹底的に傷ついた「美」というものを前に、人間は何を保存し、修復し、伝え残そうとするのか。「保存された美」展は、まさにその問いかけそのものであり、答えでもあるように映った。

 フィレンツェは、そしてイタリアは、今、何を取り戻そうとしているのだろう? 
 今回、イタリアの街をめぐりながら、各地で開催されている展覧会のタイトルに注意を向けてみると、「修復後」「文化財の帰還」「保全と保護」「防災」などの言葉が目についた。古本屋に足を向けると、「1966年」と「戦後」の特設コーナーが設けられており、被災文化財について語られた本や資料が山積みになっている。

  メディチ・リッカルディ宮から歩くこと10分ほどで辿り着くウフィツィ美術館では、去年の12月からはじまった特別展「トリコローレ(イタリア三色旗)の保護」が開催中であった。破れ傷ついたイタリア国旗のポスターが目を引く(図3)。

図3 「トリコローレ(イタリア三色旗)の保護」展 ポスター

 展覧会のテーマは「イタリア史とイタリア美術」。もっといえば、「イタリア史における悲劇が、いかに文化財を消失させてきたか」を、数々の作品をもって解説する仕組みになっている。展示会場は、「戦争」「テロリズム」「略奪」など8つのセクションに別れており、ドイツ兵により持ち去られた文化財に関する記録や、1993年5月27日にマフィアが仕掛けた爆弾テロにより激しく損傷した作品が展示されている。バルトロメオ・マンフレディの油絵の惨状は、爆弾の衝撃を今に伝える証人であり、イタリア文化財が被った数々の暴力を想起させる重い存在感を放っていた(図4)。

図4 バルトロメオ・マンフレディ《楽団》 ポスター

 「トリコローレ(イタリア三色旗)の保護」展には、二つの目的があったように思う。ひとつは、破壊され、引き裂かれ、失われてきた街の文化財が、形こそ変わってしまったとしても、いまだフィレンツェの人々とともにあるのだ、ということを示すこと。もうひとつは、ここ50年間イタリアが総力を挙げて育てあげてきた、国外流出や盗難から文化財を守るための警察の特別組織「イタリア警察文化財保護司令部」の活動とその確かな成果をアピールすることである。

 昨年12月に開会したこの展覧会には、そもそも、クリスマス・ギフトのような意味合いが託されていたらしい。洪水が起きた直後のクリスマスに、ウーゴ・プロカッチがウンベルト・バルディーニにこう語りかけた言葉を想い出す。「フィレンツェの人々には、クリスマスの贈り物が必要だと思うんだ。12月までに可能な限り市内の美術館内の掃除と整頓を進めよう。そして、一時的にでも部分的でもいい、美術館を開館しよう。一目でも、皆に洪水以前の生活を、美術に溢れた日々を味わってもらえるように」―1966年のクリスマスと同じように、2016年のクリスマスも、フィレンツェ市民たちは自分たちの元にある意味では「戻ってきた」作品を味わう機会を得たのである。

 ふたつめの目的に関しては、多分に政治的な問題も絡んでくる。 イタリアマフィアの政治経済への影響力や汚職問題、犯罪・暴力について国際的な批判が高まるなか、文化財を守り、マフィアからも取り戻す能力をもつ文化財保護司令部の活動をアピールすることは、イタリアにとって非常に重要な意味をもつだろう。実際のところ、2016年にはイタリア警察文化財保護司令部を核にユネスコが「文化遺産のための部隊」を創設し、戦争と自然災害の危機にさらされる文化遺産の保全に取り組むなど、イタリアの熱意は国際的な文化財保護分野を牽引しつつある。ここでは修復士、建築家、考古学者、美術史家ら合計二十九人からなる専門家チームが組まれるなど、興味深い試みが行われている。彼らの挑戦は、国内でも実を結びつつあるといえよう。
 2002年12月7日にアムステルダムのゴッホ美術館から奪われ、2016年にマフィア組織が所有するナポリ近郊の家からイタリア警察が発見したとされるフィンセント・ファン・ゴッホによる二枚の絵画は、2017年2月7日から26日までナポリのカポディモンテ美術館に「感謝のしるしとして」貸し出され展示されている。丁度その頃ナポリにいたこともあって、内覧会に参加したが、あれほど多くの政治家や警察官で賑わうカポディモンテ美術館を見たことがなかった。スピーチでは、「文化財のレスキュー、美術作品の保護と保全を通じて、国と国の友愛と信頼をあたため育てていく」と、イタリア警察と美術館からの宣言が読み上げられた。

 「修復後」「文化財の帰還」「保全と保護」「防災」―先述のように、イタリアの展覧会や催しには、これらのキーワードが溢れている。昨年発生した大地震によってあっけなく倒壊した公共施設の跡地の調査から、マフィアが絡む手抜き工事や耐震偽装の疑いが多数浮上したイタリアでは、市民からの批判の声が高まっていることも大きい。犯罪組織が介在する不正のために、これまでもたびたび復興が遅れてきたことは、前回の小論で述べたとおりである。
 こうした問題を克服し、誕生しつつある気運をさらに高め、自国の文化財を取り戻し、芸術都市としての誇りを持ち続けること。そのために、フィレンツェの、そしてイタリアの美術館は、これまで彼らが何をいかに保存してきたのか、そこにはどのような方法論があり、いかなる思想があったのか、その道はどこへ続こうとしているのかに、目を凝らしている。

 イタリアをまわる旅の終わりに、2009年に大地震で主だった建物が大きく倒壊したラクイラの街を友人に案内してもらい歩いた。夕暮れの旧市街に、数えきれないほどのガントリークレーン1がそびえたっているのが見えた(図5)。
「あのクレーンの数だけ、修復現場があるんだよ。マフィアが介入して、復興事業は立ち上がるだけ立ち上がるけど、途中で汚職や裏金の話のもつれがあったりして、仕事が止まっちゃうんだ。だからほらね、あの通り。クレーンだけが無数に立っていて、人は誰もいない。作業も進まない。今もあのあたりは通行止めのままなんだ」

図5 ラクイラの旧市街の様子 撮影者:田口かおり

 ラクイラのシンボルであるサンタ・マリア・ディ・コレマッジョ大聖堂がいまだ工事中のシートで覆われ、中にまったく立ち入ることができなかったのもさることながら、ラクイラ近郊を車でまわった時、地震で半壊した家屋や聖堂を一帯に抱えた村が無数にあることに衝撃を受けた。村ひとつひとつの名前を唱えながら、危険だからと入ることがかなわない聖堂を遠くから眺め、歴史を教えてもらった(図6)。あの村は中世に羊毛で栄えた。あの村は山に遮られて太陽光が入りにくいから、窓を可能な限り西側の壁につけていることで有名。あの村はモザイクの美しい聖堂がある、といった具合に。

図6 サンタ・マリア・ディ・コレマッジョ大聖堂 撮影者:田口かおり

図6 サンタ・マリア・ディ・コレマッジョ大聖堂 撮影者:田口かおり

 1966年、フィレンツェを襲った大洪水は、消えることのない傷跡を残した。いまだ修復されないままの作品がある一方、フィレンツェ市内に収蔵されていたが故に軽度の被害でもレスキューの対象となり、今現在、良好な状態を保っている作品もある。今回、最後にまわったラクイラでは、報道の外にこぼれるものの多さと被害の大きさをひしひしと感じることになった。
 フィレンツェの文化財であったからこそ、守られたものがあり、失われたものがある。フィレンツェで修復されたからこそ、生まれた外観があり、構造がある。批判的な考察をもって検証するべきメソッドがある。洪水から60年、70年と時間が経過するにつれ、当時の修復についての再考は、何度でも促されるだろう。そのたびに、より広い視野をもって「保存すること」の意味と方法を吟味できるよう、フィレンツェの内外で今現在も展開しつづけている「洪水後」の日々を注視していきたいと思っている。

1年間、ありがとうございました。
読んでくださった皆様に心から感謝申し上げます。
 
1 ガントリークレーン…(gantry crane) 一般的にレール上を移動可能な構造を持つ門型(橋脚型)の大型クレーンのこと