1966年11月4日、フィレンツェーアルノ川大洪水の被害と復興の道のり
12.「私たちは皆、洪水の申し子なのです」 - 1966年から2016年へ
2016年11月4日、洪水から50年目の節目の年に、「泥の天使たち」が、再び街に帰ってきた。フィレンツェのヴェッキオ宮殿の500人大広間に集まった彼らは、名前を呼ばれた順に壇上に上がり、当時の思い出をそれぞれの言葉でゆっくりと語った。
50年という時間が流れる間に、気がつけば、既に多くの関係者たちがこの世を去っていた。当時フィレンツェにおいて文化財レスキューに携わった人々の証言がどれほど貴重なものであり、さらに、それらは時間の経過とともに失われかねないものでもあるのだ、という事実に、人々が真の意味で心を留めはじめたのは、近年になってからかもしれない。実際、50年目の節目に集まった「天使たち」は、それまでに何度か行われてきた「同窓会」の比ではないほどの熱烈な歓迎をもって迎えられた。新聞記者、美術史家、修復士たちがイタリア各地のみならず欧州の国々から集合し、彼らを取り囲んで、当時の記憶に耳を傾けた(図1)。

図1 2016年に開催された記念式典の様子
R.it Firenze《Firenze, 50 anni fa l’alluvione: gli Angeli del Fango sono tornati in città》2016年11月4日 新聞記事
1966年当時、年若い美術史家だったオランダ人のレニー・ファン・フーフェンも、この会に参加した一人である。「あの時、状況は酷いものでした。(街が、作品が)どれほどのダメージを受けたのか、到底数えきれないほどだったんです。私は5人の同僚とチームを組んで、大聖堂や、インノチェンティ病院や、その他歴史的な建築物のなかで、作品の修復作業を進めるお手伝いをしました。私たちは休憩もはさまず1日中働いたものです。夜になると、教区司祭がやってきて、バーチョ・ペルジーナのチョコレートを手渡してくださって・・・・・・。私たちはありとあらゆることをしました。ずぶぬれになった本の各頁に除湿剤を挟み何週間ものあいだ乾かし続けたり、サンタ・クローチェ聖堂では、バッチョ・バンディネッリの彫像を洗浄したりもしました (図2、3)」当時まだ学生であったイギリス人のスーザン・グラスプールは、アルノ川が街を飲み込んだ時の情景が忘れられない、と語った。「小道が、家が、美しい品物でウインドウが飾られた店が、消えて泥のなかに沈んだのです。写真を撮影する気力すらありませんでした。 濁流に押し流された彫刻や絵画を前に、私たちはまごつき、うろたえていました。でも、そんな恐ろしい瞬間のなかにあって、私たちは何かをしなくてはならないのだ、ということはわかっていました。そして、その気持ちのままに、作業を実行したんです1」

図2 フィレンツェ大聖堂内バッチョ・バンディネッリの浮彫彫刻、洪水時に水が到達した場所までの損傷が著しい様子/Foto Alinari、Raffaello Bencini撮影

図3 国立図書館で行われた最初の洗浄作業の様子/Foto Alinari、Raffaello Bencini撮影
セレモニーは荘厳な設えのなか進行した。フィレンツェの室内管弦楽団が楽曲を奏で、その背後のスライドには、デイヴィッド・リーをはじめとする写真家が撮影した当時の記録写真が幾枚も映し出されていた
「泥の天使たち」の証言、弦楽器の響き、映し出される記録、市長らのスピーチ。2016年のこの催しが、参加した人々の多くに、40年前のセレモニー―すなわち1976年、サンタ・クローチェ聖堂へのキリストの帰還に際して行われたセレモニーを思い起こさせるものだったことは間違いない。異なるのは、彼らが何を見上げているか、だけである。40年前の式典の際、彼らの目の前に掲げられていたのは、修復後のチマブーエ《十字架降下》であった。2016年の今、500人大広間で彼らが見上げるのは、ヴァザーリの《最後の晩餐》である。《最後の晩餐》は、《十字架降下》同様、数十年の時を経て2016年に修復が完全に終了し、一般に再公開された作品であった。
《最後の晩餐》の修復プロジェクトが本格的に始動したのは1996年のことである。事の起こりは、洪水から30周年の節目に開催された展覧会「水から救われて」に、作品の中央パネルが展示されたことであった。96年に展示された折には、作品の表面にはまだ剥落留めのために利用された和紙がそのまま付いており、また、「作品を大きく動かすことは避けたい」という修復担当の修復士の要望もあって、水平の状態で展示された。その時点では肉眼で確認できるのは聖ペテロの頭くらいなもので、肝心のキリストの頭部でさえ、和紙の下に隠された状態であった(図4)。

図4 ジョルジョ・ヴァザーリ《最後の晩餐》修復前の様子/国立貴石修復研究所アーカイヴ
《十字架降下》の修復と公開が終了して数十年たっていた当時、フィレンツェは、文化財のレスキューと保存修復を継続的に行うために、シンボルとなりうるような作品を求めていた。
マルコ・チャッティは次のように語る。「そう、確かに、重要な作品群は、初期の段階で修復されたものが多かったのですが、真の問題は、工芸品や、木工家具、礼拝で用いる典礼用の布などをはじめ、洪水後手つかずのまま残っている作品でした。洪水がもたらした損害があまりに大きすぎたこと、そして、いわゆる『アルティ・ミノーリ(arti minori)』つまり重要性が乏しいと捉えられている作品への関心の低さから、修復分野では自動的にこれらへの介入優先順位が低くなります。とはいえ、こうした作品は『アルティ・マッジョーリ(arti maggiori)』つまり重要な作品群に連なるものなのですが2」研究者ロバート・クラークもまた、2006年の時点で、国立図書館内に収蔵された作品のうち、いまだ25%が未処置のまま放置されていることを指摘している。《最後の晩餐》もまた、洪水後、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅近くの仮収蔵庫に運び込まれた後、しばらくの間はほぼ手つかずのままになっていた作品であり、1996年までの間に段階的な処置こそあったものの、いまだ損傷の跡は生々しかった。乳白色の和紙のむこうに透けるキリストの「痛々しさ」は、チマブーエのキリストの役割を継ぐに十分なインパクトがあったろう。マスコミの大々的な報道も功を奏して、《最後の晩餐》の修復を求める声は民間からも挙がりはじめた。こうして、国と企業が強力なスポンサーとなり、介入が進められたのである。
チャッティは《最後の晩餐》の修復がいかに困難なものであったかを繰り返し語った。「2006年から2016年にかけて行われた《最後の晩餐》の最終修復プロジェクトは、開始された当初はすべてが不可能であるかのように思えました。しかし私たちは、過剰な介入を避けつつもなんとか失われたすべての箇所の色彩を回復させることに成功しました。すべてが、予防的修復の概念に基づいて行われた、革新的な修復であったといえるでしょう。《最後の晩餐》は脆いままです。しかし、私たちは、作品が繊細な均衡を保ったまま経年に耐えられるような仕組みをほどこしたのです」そして2009年頃からは、《最後の晩餐》の下層にはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたとされる幻の壁画《アンギアーリの戦い》が存在するはずである、と美術史家マウリツィオ・セラチーニが主張したことをきっかけに、作品に穴を穿ち下層を確認すべきか否かについて激しい議論が巻き起こることになる。
2016年の11月、500人大広間に集まった人々は、会場壁面を飾る《最後の晩餐》を眺め、当然のことながら洪水に想いを馳せ、さらには、それより何世紀も以前に塗りつぶされてしまったかもしれないレオナルド・ダ・ヴィンチの《アンギアーリの戦い》を想っていたことだろう。ヴァザーリ作品上の軍旗に小さく書き込まれた言葉「Cerca trova(探しなさい、そうすれば見つかるでしょう)」は、謎解きへ向かう人々の好奇心をくすぐり、さらに「隠された本当の何か」を求める本能を刺激した(図5)。2013年に出版され、2016年秋に公開されたダン・ブラウン『インフェルノ』内でも、このメッセージが主人公を導く重要なキーワードとして用いられている。今なお検討が続くこの「ヴァザーリ・レオナルド壁画問題」もまた、ある意味では、アルノ川大洪水を契機に行われた調査や介入の結果、浮上したものといえるだろう。

図5 ジョルジョ・ヴァザーリ《最後の晩餐》部分/国立貴石修復研究所アーカイヴ
1966年アルノ川大洪水以降のフィレンツェを中心にしたイタリア保存修復史をなぞっていくと、ほぼ10年ごとに何らかの大きな出来事が起こっていることがわかる。1976年には、《十字架降下》が帰還し、1986年には20年式典が行われ、それを見届けて安堵したかのようにバルディーニが翌年には退職する。1996年からは前述のヴァザーリ《最後の晩餐》の修復プロジェクトが動きはじめており、その翌年の1997年にはアッシジを大地震が襲う。そして2006年、《最後の晩餐》修復のために国が大規模な補助金を用意した洪水後40年の節目の年に、バルディーニがこの世を去った。10年、20年、と杭を打つかのようにバルディーニは洪水後の時を生き、ちょうど40年目に、この世を去ったのである。
《十字架降下》に施された補彩について批判する声に対し、晩年近くのバルディーニは声高に反論することがなかった。一方、先の章で触れたように、彼の妻であり、補彩介入を行った張本人であるオルネッラ・カザッツァ自身は、研究者ロバート・クラークのインタビューに答える形で、抽象的な色彩補完―アストラツィオーネ・クロマティカ―について、その選択は間違いではなかった、と、改めて述べている。カザッツァとバルディーニは、バルディーニの理論に従って施した補彩の正当性を明らかにするべく、コンピュータ解析を用いて何度も色彩テストを繰り返したという。その結果―それがどのようなテストであったのかは明らかにされていないが―カザッツァが至った結論は、「例え今、もう一度チマブーエの《十字架降下》を、ボッティチェッリの《春》を、ブランカッチ礼拝堂の壁画を補彩しなさいと言われても、当時とまったく同じようにする」というものであった。クラークの言葉を借りるならば、彼女の確信には「一抹の後悔も、再考の余地も、疑いもない」のであった3 。しかし、バルディーニが自身の下した選択に苦しみ続けたこともまた、事実である。クラークの友人は、「洪水で破壊されたあの十字架にかけられていたのは誰か知っているかい? キリストじゃない、バルディーニ自身だよ。彼は、自分がチマブーエのキリストに対してしたことを背負い続けて人生を送った。逃れられない十字架にかけられていたんだよ」と当時を振り返っている4。
2016年の催しに合わせて制作が進められてきたドキュメンタリー映像は、このようなバルディーニの葛藤に着目するような構成にはなっていない。しかし、全編を通じて明確に示されるのは、バルディーニこそがフィレンツェを保存修復学の重要な拠点とした人物であり、すべては洪水から始まったのだ、という強いメッセージである。
「洪水がもたらした大災害を前に、フィレンツェは修復の方針そのものを見直す必要に迫られました。科学分野との連携は、フィレンツェの修復学が定まりかけた頃にはまだ確固たるものではありませんでしたが、今やなくてはならないものになりました(・・・中略・・・)1966年以降の流れは、フィレンツェの国立貴石修復研究所がバルディーニの尽力のおかげで新たなシステムとともに動き出した1975年へと繋がっていきます。この時から、国立貴石修復研究所はもはや一地方の工房ではなく、国際的な研究機関へと変身を遂げたわけです。あらゆる点から見て、私たちは皆、洪水の申し子なのです5」
1 R.it Firenze《Firenze, 50 anni fa l’alluvione: gli Angeli del Fango sono tornati in città》2016年11月4日 新聞記事
2 Beltrami, Alessandro. L’alluvione 50 anni dopo. Firenze 1966, la rinascita continua in Avvenire. It., 3 November 2016.
3 Clark, Robert. Dark Water, Anchorbooks, 2008, p. 302.
4 Clark, Ibid, p.283.
5 Pacciani, Enrico (documentary film). Firenze 66 – Dopo l’alluvione, 2016.