1966年11月4日、フィレンツェーアルノ川大洪水の被害と復興の道のり
10.修復家たちの奮闘④:チェーザレ・ブランディと「予防的修復」
2008年11月29日、フィレンツェの国立バルジェッロ美術館展示室に、ドナテッロによる1440年作のブロンズ《ダヴィデ像》の姿があった。バルジェッロ美術館はいつもどおり観光客で賑わっていたが、そこに加えて数多くの市民の姿がある。彼らの目的はひとつ、久しぶりに彼らの元に「戻ってきた」《ダビデ像》を目にすることであった。
メディチ家が栄華を極めていたルネサンス時代に制作されたこの記念すべき彫刻は、完成直後はフィレンツェのメディチ・リカルディ宮殿の中庭に置かれていたが、1865年にバルジェッロ美術館に移され、現在に至る。ただし、2007年以降、《ダヴィデ像》は、美術館を訪れる鑑賞者たちから、ある意味では「隔てられて」いた。
2007年、洪水から40年の節目の年を超えたトスカーナ州は、大々的な文化財修復プロジェクトに着手していた。災害防護庁、トスカーナ州史跡保存事務局、フィレンツェ美術館特別監督局、そしてイタリア各地で活躍する専門家たち──錚々たるメンバーが一丸となり、保存修復やメンテナンスの必要があると思われる州内の作品群の調査と公開修復が開始されたのである。介入対象とされたのは、ヴァザーリ《最後の晩餐》をはじめ、洪水で甚大な被害を被った作品群であった。《ダヴィデ像》が収蔵されている国立バルジェッロ美術館のコレクションは、1966年当時、浸水により大きなダメージを受けており、被災から数十年を経た段階での再調査と保存処置が望まれて久しかった。とりわけ被害が大きかったのは、一階に展示されていたルネサンス時代の彫刻群や兵器の収集品である(図1)。とはいえ、《ダヴィデ像》自体は、1966年の洪水によって著しく破損したわけではない。この彫刻に関しては、状態も安定していたことから、大規模な修復が行われないままに時間が経過していたのである。

図1 1966年洪水時の国立バルジェッロ美術館の様子
『記憶を守る──破壊と再生の歴史』展 展示史料
聖エウストロジオ寺院附属美術館、2016年
2007年からのプロジェクトは、ドナテッロによる制作後、初めて《ダヴィデ像》に本格的な調査のメスを──文字通り、外科手術用メスやレーザーが洗浄に使用されたわけだが――入れた。介入の目的は、作品のメンテナンスを行うとともに、この類希な至宝について、これまで知られていなかった新たな情報を公開することにあった。大きな損傷を負った作品というわけではなかったが、ドナテッロの彫刻は、苦難の時期を乗り越えて見事に復興を果たしたフィレンツェが芸術都市としての唯一無二の存在感を改めてアピールする「洪水後40周年」のエンブレム的な役割を担うことになったのである。
フィレンツェ市災害防衛当局から20万ユーロの助成を受けて行われた修復では、過去、長期間にわたって野外に設置されていたためにこびりついた粉塵や、過去に行われた修復の際に表面に塗られた蜜蝋が硬化し変色した部分が洗浄された。結果、その下から姿を現したのは、オリジナルの鍍金の痕跡であった。ドナテッロは、油性接着剤を用いた鍍金技法(doratura a missione)により、ダヴィデの兜や靴飾りに装飾を施していたのである。像の表面を覆っていた蜜蝋は、担当修復士の証言によれば「石のように硬くなって固着して」いて、洗浄がすべて終了した時には18ヶ月もの時が経っていた。修復後には、オリジナルの外観や色調を再現したブロンズの複製像が展示されるなど、修復後の情報公開の方法もまた、人々の関心の的となったことは、記憶に新しい。
1459年に《ダヴィデ像》が宮殿中庭に設置された際、傍らには、デジデーリオ・ダ・セッティニャーノが改修を手がけた円柱がそびえ立っていた。台座には、アレッツォ司教であり、ロレンツォ・デ・メディチの少年時代の家庭教師でもあった古典学者ジェンティーレ・ベッキによる一節が彫り込まれていた。
Victor est quisquis patriam tuetur
Frangit immanis Deus hostis iras
En puer grandem domuit tiramnum
Vincite cives
勝利は祖国を守護する者すべてにもたらされる
神が邪悪な敵を打ち砕く
見よ、大いなる暴君を打倒した少年を
勝利は民とともに
《ダヴィデ像》に託された政治的戦略は、当時、この力強いエピグラフ(碑文)によって明確に打ち出されたと見ていいだろう1。
それからおよそ550年後の2008年に再公開されたこの彫刻、そして保存修復プロジェクトにより同時期に「再び甦った」他の作品群を前に、洪水から40年の長い道程を改めて振り返り、ダ・セッティニャーノの刻んだ銘をふと思い浮かべた市民は、ゼロではなかっただろう。かつてのフィレンツェがダヴィデ像をもって共和制の勝利を宣言したように、フィレンツェは、いつの時代も彼らを悩ませてきたもうひとつの「大いなる暴君」─アルノ川がもたらした災害に打ち勝ったことを、再び宣言したのである。
長い前置きになってしまったが、ここで、2008年という年が、西洋の保存修復学にとって別の意味においても節目の年であったことを強調しておきたい。連載にもたびたび登場している、かのチェーザレ・ブランディ(1906-1988)の没後20年である。2年前の2006年にはブランディの生誕100年を記念し多くのシンポジウムが各地で開催されていたが、2008年は、ブランディ研究がより一層の活発化をみせた1年であったといえるだろう。3月に行われた「ブランディの修復理論とイタリアの保存修復教育」(ローマ)にはじまり、5月の「ブランディと現代美術の保存修復」(フェッラーラ)、11月の「チェーザレ・ブランディとジュリオ・カルロ・アルガン」(ローマ)など、企画された催しは、枚挙にいとまがない。
上述のいずれの場においても言及された用語がある。それが、今回の小論の副題にもある「予防的修復 restauro preventivo」である。この用語は、前述の《ダヴィデ像》を含む修復プロジェクトにおいても、たびたび引用されてきた。
ブランディ自身が「変わった言い回し」と最初に断ってから解説する「予防的修復」の概念は、彼が長らく温めた末に1956年に正式に示し、さらに1963年に刊行された『修復の理論』内で独立した章を設け論じたものである。ブランディの言葉を引用すれば、それは「緊急を要する修復をあらかじめ阻止するために」行うもので、イメージとしての、そして物質としての作品の保全を目指して行うありとあらゆる処置を指す。「予防」の範疇には、まず、作品に関する文献学的なデータの収集から、将来的に予見される危険の除去、好ましい状態の維持・メンテナンスまで幅広いレベルの業務が並ぶ2。
現代の日本および欧米諸国では、ブランディが提示した「予防的修復」よりも、むしろ「予防的保存 preventive conservation」の語の方がより広範に認知されているが、つまるところ、両者の間には語の違いがあるだけで、どちらもおおまかな狙いはほぼ同じであると捉えて良いだろう。作品や資料が損傷してからはじめて処置を行うのではなく、不測の事態に備えつつ、現状が悪化しないよう、そして劣化が著しく進行しないよう処置を図る姿勢である。
ただし、ブランディが主に建築物についての「予防的修復」から論を組み立てていったのに対し、現在、「予防的保存」の語は、図書館やアーカイヴ・センターなど、紙媒体の蔵書を扱う機関においてより積極的に用いられている。1979年にはIFLA(国際図書館連盟)が「図書館における保存と修復の原則」を発表し、そのなかで、史料が劣化する要因を把握し、コレクションの管理、防災、セキュリティの整備など、多様な項目からなる「予防策」を講じることの重要性を述べている3。IFLAの国際センター長をつとめるフランス国立図書館のマリー=テレーズ・バーラモフが、文化財の赤十字「ブルーシールド国際委員会(ICBS)」が救済の対象とするものとして1966年の被災資料を挙げ、近年の最も深刻なケースとして真っ先にフィレンツェの名を出したことからもわかるように4 、「予防的保存」の概念は、ほかでもないアルノ川洪水を契機として各国に広がっていった。「温度が10°C上がるごとに、図書や雑誌、文書といったこれまでの図書館・文書館資料の化学的劣化の速度は2倍になる」といった詳細な情報を一般の人々にも広めようとIFLAが試みたのは、1966年にフィレンツェに集結したボランティア「泥の天使たち」の果たした役割が念頭にあったからであった。災害時、「図書館における保存と修復の原則」を精読し理解しさえしていれば、普段は文化財に関わることのない人々もまた、大きな力となりうる、との考えがあったのである。
さて、ブランディの唱える「予防的修復」の特殊な射程について、続けて触れておこう。
「完全なる破壊」を予防するため、保存修復の果たすべき役割はどこにあるのか。「予防的修復」をめぐる思索の中で、ブランディはやがて、文化財が被災する「以前」という純粋なタイムラインだけを念頭に置くのではなく、無批判な介入を予防し作品の価値を「修復から」守ることへと、視野を広げていく。「予防的修復」とは、メンテナンス的行為や、破壊を食い止めることのできるあらゆる行為を指しており、ひいては修復それ自体を阻止し、あるいは延期する行為でもあるのだ5。
ブランディは、修復に携る者たちは、「修復において」保護される空間だけでなく、「修復から」保護される空間について考えなくてはならない、と言う6。彼の考える「予防的修復」とは、作品のみならず、作品の置かれた場そのものをいかに管理するかをめぐる考察なのである。ブランディは、作品の空間と我々の生きる空間、作品の時間と我々の生きる時間の間には、超えられない、超えてはならない「縫い目」が存在すると考えていた。そして、保存修復の技法は、今を生きる我々の空間と時間から作品を適度に隔て、作品ひとつひとつが有する歴史的価値を尊重するものであるべきだ、と述べるのだ。
ブランディの用いた「予防」の語は、『修復の理論』初版発刊からわずか3年後に発生したアルノ川洪水からの復興時にあって、非常に説得力があった。ただし、多くの人々が、「予防」の意味を「またいつか市民を襲うであろう洪水という大災害に、次こそは完全に備える。そして、これ以上の被害を今後は出さないよう対策を練る」という文脈でのみ、捉えていた。そのなかで、ウンベルト・バルディーニは、ブランディの言うところの「予防的修復」が、「介入の予防」をも視野に入れていることを理解し、作品の歴史的な価値を歪曲することのない、判別可能な介入──「アストラツィオーネ・クロマティカ(線描による抽象的な色彩補完技法)」を考案するに至る(図2)。こう考えてみると、チマブーエ《十字架降下》に施された補彩は、ブランディが投げかけた「予防的修復とは」という課題への、バルディーニなりの応答でもあるとも捉えられる。

図2 アストラツィオーネ・クロマティカの新技法
マエストロ・ディ・カステッロ《玉座の聖母子と聖人たち》
国立貴石研究所アーカイヴセンター
ブランディとバルディーニは、同じ世代を生きた気鋭の美術史家として、それぞれローマとフィレンツェで国立の修復施設を牽引し、ともに多くの困難を乗り越えた二人である。とはいえ、国際的な知名度は圧倒的にブランディの方が高く、また、彼が率いた中央修復研究所が時にフィレンツェの国立貴石修復研究所の介入をめぐる判断に疑問を呈したり、介入の方向性をコントロールしようとすることもあったことから、ローマVSフィレンツェ、という対立の構図が指摘される機会も少なくなかった。両者の関係性が良好ではなかったのでは、と憶測する声も挙がらないことはない。しかし、アストラツィオーネというバルディーニの技法上には、ブランディの思索を探求した一人の寡黙な美術史家の姿が浮かび上がってみえる。「予防」の語の上で交錯するブランディの考察から、バルディーニは確かに、大きなヒントを得ていたのである。
「予防的修復」は、作品の「外」に意識を向ける概念である。ここでいう「外」とは、作品が収蔵される物理的な環境という意味での「外」であると同時に、「作品の外の者=第三者」である人間をも指している。ブランディのこうした考え方──保存の対象を、作品そのものだけではなく、作品を取り囲む環境にまで拡張していく姿勢は、1964年のヴェネツィア憲章、続いて1972年の修復憲章を導くことになる。それは、イタリアで初めて制定された修復についての憲章であり、その対象は、文化的価値を有するあらゆる制作物へと広げられていくのである7。
現在、ブランディが提示した予防的修復の概念は、温度や湿度の調整、調書の管理などにとどまらず、現代美術の分野でも注目を集めつつある。芸術家のジュリオ・パオリーニは、1993年のインタビューで、自身が素材とするプレキシガラスについて、「予防的修復について検討する」べきだと述べている。
プレキシガラスは私自身、かなり頻繁に使う素材ですが、たいして優良でもなければ持ちも良くない素材です。プレキシガラスは、オリジナルの状態を保持することができず、黄変して暗く古びていきます。私がこの素材を選んだのは、美しさと清純さ、そして完全なる透明さのためなのですが……。この問題は、古い絵画に塗布されたワニスの劣化と比較することができるでしょう。色彩に生き生きとした力を与えるために塗布された美しい透明のものが、組成された顔料の結合が大きく変化するにつれ、暗色化してしまう、ということですね。とはいえ、プレキシガラスを用いて制作されたものを、軽はずみに他素材と交換することもできません。素材は芸術とともに誕生するのですから。となれば、(環境整備、スペアの準備、対話などの)予防的修復について検討する必要があります8。
ブランディの「予防的修復」とは、作品にワクチンを施し、寿命があるうちに免疫をつけさせるような方策ではない9。いうなれば、長い時間を経て私たちの生きる時代へと辿り着き、また長い時間をかけて未来へと継承されてゆく作品について、「外」にあるものとの関係性を再考し、失われてゆく作品の情報をいかに取り扱っていかに保存するのか、その選択をめぐる、多様な検討なのである。
1 Caglioti, Francesco. Donatello e i Medici. Storia del David e della Giuditta, Firenze: Leo S. Oleschki, 2000, pp. 205
2 チェーザレ・ブランディ『修復の理論』小佐野重利監訳、三元社、2008年、pp. 118-138
3 エドワード・P.アドコック編 『IFLA 図書館資料の予防的保存対策の原則』木部徹監修、国立国会図書館訳、2003. なお、1986年と1998年には、ジャンヌ=マリー・デュローとデビッド・クレメンツによって改訂されたヴァージョンが刊行されている。上記資料序文(p. 4)を参照。
4 マリー=テレーズ・バーラモフ「IFLA/PACの防災プログラムについて」(スマトラ沖地震・津波による文書遺産の被災と復興支援平成17年度国立国会図書館公開セミナー記録集)、『図書館研究シリーズ』、No. 39、2006
5 オリンピア・ニリオ「修復の歴史と哲学──19・20世紀ヨーロッパにおける建築の修復」池野絢子訳、特別講演会原稿、東京大学駒場キャンパス、2013年6月
6 ブランディ、前掲書 p. 120
7 1973年には、イタリア人の美術史家ジョヴァンニ・ウルバーニが編纂した著作『保存の諸問題』が刊行され、修復介入以前に行われる予備的な調査と研究が強く奨励される。ウルバーニはこれを「計画的保存(conservazione programmata)」の名で呼び、文化財を保存継承していくため、環境レベルでの保護システムの構築を奨励している。
8 アントニオ・ラーヴァ『現代美術の保存と修復』田口かおり訳、特別講演会原稿、京都大学、2014年3月. なお、本稿のために一部訳を改訂している。
9 ブランディ、前掲書p. 123