1966年11月4日、フィレンツェーアルノ川大洪水の被害と復興の道のり
はじめに ― 洪水以前、洪水以降(before flood, after flood)
1996年秋、イタリア、フィレンツェ。
11月に入ってから降り続いていた雨はやむことなく、アルノ川の水位はじわじわとあがっていた。フィレンツェの平均降水量は年間で平均823mmであるが、この頃、町に降り続いた雨は1日ですでに190mmを超えていた。1年で降る雨の四分の一ほどが、24時間で降ったことになる。
11月4日、午前3時48分。
イタリアのANSA通信の報道が世界をかけめぐった。
「イタリアのトスカーナ州の現状は深刻であり、悪化の一途をたどっている。雨は降り止む気配もなく、細かった水流さえ、ますます勢いをまして幅広く、太くなっていく。アルノ川付近のフィレンツェ近郊の町は非常事態を迎えた。雨水は居住地区の多くを飲み込んでしまった。」
通信からほどなくして、「幅広く、太くなった水流 corso d’acqua, ingrossato」は家々の扉を押破り、押し流し、破壊しはじめた。水は、ひとところに留まることなく、市街地から身をくねらせるようにして街路をつたい、東のサント・スピリト地区に到達する。
午前4時、停電。
サンタ・クローチェ聖堂や、聖堂附属美術館の頑丈な正面扉は、水流の攻勢にかろうじて耐えた。しかし、建築物側面の隙間から容赦なく聖堂内になだれ込んだ水は、床を這い、まっすぐに奥へとむかった。フィレンツェ市民が誇る美しい文化財、チマブーエの板絵《十字架降下》が待つ方へ。
午前7時29分。
冬のはじめの早朝、冷えきったフィレンツェの町は、雨水と泥で埋め尽くされる。それでもなお、濁流は時速50kmで街を走る。水をかきわけて、人々はキャンドルの灯りや懐中電灯を手に、救助活動を開始した。市内の地面は、不気味な青黒い光沢を放っていた。何故こんな色に水が光るのだろう、と人々は最初、首をかしげたという。洪水で流された車からこぼれ落ちるガソリンが、水をタール状に濁らせ、どんよりと光らせていたのだった。水におびえる馬のいななきが遠くから聞こえてくる。馬主たちを中心に、動物の避難も開始されていたが、足がすくんだ馬はなかなかその場から動かなかったのだ。
1966年のこの洪水で亡くなった人々は、35人にも及ぶことが知られる。同時に、70頭の馬をはじめ、多くの動物たちもまた、犠牲になった。動物園で子供たちから大人気だったラクダも、水流に押し流され、溺れて息絶えた。伝染病の発症を防ぐため、屍骸はすぐに焼却処分されなければならなかった。
被害を受けたのは生き物ばかりではない。文化財の数々もまた数多く失われ、深刻な損傷を負った。洪水当時の町中には、周囲の家々から流されてきた様々な物が浮かんでいた。テーブル、椅子、靴、食器、衣服、おもちゃ、本。そのなかに、近郊の教会から流されてきた聖母マリアの絵画や彫刻などの文化財もまた、所在なく漂っていたという。
水がある程度引いたのはそれから随分時間が経過してからのことである。フィレンツェの国立輝石修復研究所の代表であった美術史家、ウンベルト・バルディーニ(1921−2006)は、まず、ウフィツィ美術館に、そして水浸しになったサンタ・クローチェ聖堂に駆けつけた。サンタ・クローチェ聖堂がどれほど大きな被害を受けたのか。チマブーエの《十字架降下》は果たして無事なのか。彼は当時の様子を、次のように回想している。
中に入った時、(チマブーエの)キリストはすでに、顔もなく、身体もすでにない状態だった。作業者たちは一言も発さなかった。私の方を見て、十字架を水平な状態に降ろす仕事をはじめようと準備して指示を待っていた。彼らは、私の声を聞くことはなかった。ただ、私の頬をつたう涙を見、そしてその少し後に、真っ青な顔をした(同僚の)ウーゴ・プロカッチの頬を同じようにつたう涙を見た。
サンタ・クローチェ地区での水位は、ところによっては最終的に4m近くまで上昇し、チマブーエの《十字架降下》は完全に水に浸かり、取り返しのつかないほど大きな損傷を受けていた。
ルネサンス時代を生きた芸術家達の評伝『画家・彫刻家・建築家列伝』(初版1550年, 第2版1568年)を著したジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1574)は、評伝の冒頭を飾るチマブーエ伝において、当の芸術家をこのように紹介している。
「絶え間なく襲い来る凶事の洪水は、哀れなイタリアをおし流し溺死せしめるに至り、およそ建築と呼ぶに値する建築をことごとく破壊したばかりでなく、芸術家をひとり残らず消滅に追いやってしまった。時おりしも、1240年、絵画芸術の世界に光明を投ずるべく、天はフィレンツェの町に、姓はチマブーエ名はジョヴァンニなる男子が、当時の名家であるチマブーエ家の一員として、呱々の声を上げる配慮をなさせ給うた」。もちろん、ここでヴァザーリが言うところの「洪水」は水害以上の出来事をも暗示しているわけだが、ともあれ、ここで、洪水にあえぎ破壊された世界を救う光のような存在と讃えられているチマブーエの制作した作品が、およそ400年後、まさに文字通りの「洪水」によって「ことごとく破壊されて」しまったことは、皮肉な命運というほかない。
被害を受けた文化財は、チマブーエ《十字架降下》にはとどまらない。実のところ、損傷を受けた美術作品は850点もに及んだ。板絵221点、カンヴァス作品413点、写本23点。作品のなかには、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のパオロ・ウッチェロ《天地創造》があり、オンニッサンティ聖堂のサンドロ・ボッティチェッリ《聖アウグスティヌス》とドメニコ・ギルランダイオ《聖ヒエロニムス》があり、ドゥオーモ大聖堂のドナテッロによる彫刻《マグダラのマリア》像があった。いずれもフィレンツェが誇るルネサンスの至宝である。洪水は、また、国立図書館に所蔵されている130万点もの重要資料やコレクションにも、被害を与えていた。
1966年11月4日。この日から、フィレンツェの長い復興の道のりが始まったのである。

図1 「1966年アルノ川の水はこの高さにまで達した」と刻まれた石 (個人撮影写真)
翌日から、全世界はフィレンツェの文化財を救おうと動きだした。実際のところ、災害の報道からほどなくして、あらゆる分野の専門家やボランティアが町に集結して作業にとりかかったことが功を奏し、数多くの作品が救われ後世に残された。彼らは泥にまみれながら、美術館や博物館、被害の大きかった聖堂、図書館をめぐり、絵画、彫刻、書籍、写本等を水中から見つけ、拾い上げては応急処置をほどこしていった。この迅速な行動のおかげで損失や消失を免れた作品の数ははかりしれない。彼らはイタリアの地で「泥の天使たち Angeli del fango」と呼ばれた。「地道な作業」「高い専門性」「大きな理念」そして「人々の一致団結」が、文化財の命をつないだのである。
フィレンツェを襲ったアルノ川氾濫から半世紀が過ぎ、来年は丁度50年目となる。
「洪水以前、洪水以降(before flood, after flood)」という言葉が、この機に再び、あちらこちらで聞かれるようになった。イタリア国内のみならず、文化財保護に携る世界各国の専門家たちのあいだで使用されるこのフレーズは、フィレンツェの大洪水を境に、保存修復の技法や理念が大きく変化した事実を我々に伝えている。洗浄や補彩、支持体の補強などの処置には、様々な変化———たとえば、紙資料をクリーニングするために考案されたフローティングボード法や、失われた色彩層を独特な中間色で補彩してゆくアストラツィオーネ・クロマティカ(抽象的な色彩補完法)など―—がおとずれた。これら具体的な技法もさることながら、着目すべきは、「マス・コンサベーション(Mass Conservation-大量修復)」や「予防的修復(Preventive Conservation)」といった保存修復の基本理念や方法論そのものが脚光を浴び、再考を促されたことであろう。個々の作品や資料への個別の処置を超えて、コレクション全体の保存と修復を目指す「マス・コンサヴェーション」の姿勢は、とりわけ図書館やアーカイヴ資料を持つ資料館などにおいて、洪水以降、重要視されるようになっていく。作品の保存環境を整えて作品を修復することよりも、不慮の事態を防ぎ、安定した環境での延命を試みようとする「予防的修復」の理念は、19世紀前半から既にイタリア近現代修復の祖チェーザレ・ブランディ(1906-1988)らによって提唱されていたものだが、これもまた、洪水以降に再び注目を集めることになった。

図2 チマブーエ《十字架降下》に施された補彩
(Baldini, Umberto. Teoria del restauro e unità della metodologia, Firenze: Nardini, 1978.)
洪水からの復興に携った専門家たちは、各々の技術力などを提供しつつ、フィレンツェおよびイタリア修復界の動向から多くを学び、その経験や情報を役立てつつ現在に至る。日本もまた、例外ではない。大洪水からの復興に直接携った専門家や研究家を招いての講演や研究会は、これまでもたびたび行われてきた。近年、その試みはますます活発になってきているように思われる。こうした事情の背景には、東日本大震災、そして津波によって多くの文化財を失った日本が、1966年の災害以降、復興の道程を歩み、豊かな経験をもって保存修復界を牽引してきたイタリアに学ぼうとする姿勢があった。火山を有し、地震が発生する国であるイタリアと日本は、アッシジにおける地震災害からの復興時などにも協力関係を保ち、ともに美術作品のレスキューに取り組んできた経緯がある。
しかし、「実際にあの日、1966年11月4日にフィレンツェで何が起きたのか」については、いまだ日本では正確に報告がなされていないように思われる。当時、フィレンツェには、フィレンツェ保存修復学の礎を築いたウンベルト・バルディーニがおり、「文献学的修復」を唱え作品の歴史的な価値を重視したウーゴ・プロカッチがおり、ローマには彼らに手を差し伸べ協力を惜しまなかった美術史家チェーザレ・ブランディがいた。イタリア修復学を牽引した彼らは、当時どのようなことを考え、行動し、新たな課題に向き合い、処置を施し、技法を生み出していったのか。今となっては皆この世を去ってしまったが、彼らが残した記録をたどることで、我々は、バルディーニらの、そして彼らが中心となっていた1960年代のイタリア修復学の発していたメッセージや理念を再現し、各人の意図を理解することができるだろう。
あの夜の一刻一刻の出来事を再現しながら、前述の修復士や美術史家たちのみならず、関係者の証言や声明、修復記録、新聞記事、書籍などの資料を手がかりに、フィレンツェ復興の50年がいかに築き上げられてきたのか、その道のりを浮き彫りにすること、それが本稿の目的である。1966年からの日々の再現と検証が、今まさに復興の道のりを歩んでいる日本の文化財保存修復にとってもささやかな一助となれば、それにまさる喜びはない。
次話では、まず、アルノ川がフィレンツェ市を飲み込んだ日の前夜、11月3日へと、時計の針を戻すこととする。